高校生1万人署名活動が始まって間もないころの平野さん(中央手前)=2001年7月、長崎市内(平野さん提供)

高校生1万人署名活動が始まって間もないころの平野さん(中央手前)=2001年7月、長崎市内(平野さん提供)

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被爆2世を生きる 平野伸人の半生(8) 【自発】 高校生が表舞台へ

2020/07/06 掲載

高校生1万人署名活動が始まって間もないころの平野さん(中央手前)=2001年7月、長崎市内(平野さん提供)

高校生1万人署名活動が始まって間もないころの平野さん(中央手前)=2001年7月、長崎市内(平野さん提供)

【自発】 高校生が表舞台へ

 「いつも同じ顔触れ。知らない人がいたら警戒するほどだった」。東西冷戦のあおりで原水爆禁止運動が分裂する中、被爆医師の秋月辰一郎=2005年に89歳で死去=らが団結を呼び掛け1989年に始まった「ながさき平和大集会」。平野伸人(73)は、その将来に不安を抱えていた。
 県被爆二世教職員の会会長だった平野は同集会の事務局長に起用され、92年に秋月が病に倒れた後も集会を切り盛りした。だが、秋月が望む若者の参加は「ほとんどなかった」。
 98年5月にインド、パキスタンが核実験を強行。核を巡る情勢は緊迫の度合いを増していく。同集会関係者の間で被爆者をニューヨークの国連本部へ送る案が出た際、平野の頭に秋月の声がよぎった。「若い人を」。こうして生まれたのが高校生平和大使だった。
 公募で選んだ2人が同年10月、国連本部で関係者を前に英語で被爆地の思いを訴えた。当初、同集会内部では「民間の範疇(はんちゅう)を超えている」「行政と協力すべきだ」と批判もあったが、平野は「権力におもねれば言いたいことも言えなくなる」と市民運動にこだわり、派遣のため自腹も切った。
 以来、平和大使派遣は恒例化。2000年からは国連側の助言で訪問先を軍縮会議の舞台、ジュネーブの国連欧州本部に移す。
 高校生の輪は自発的に広がる。平和大使選考に落ちた高校生の中から「何かしたい」との声が上がり、01年、平和大使が国連欧州本部に届ける署名を集める高校生1万人署名活動実行委員会が始動した。
 ただ、「知名度がある今と違い、当初、署名は思うように増えなかった」。活水高2年時に創設メンバーとなった被爆3世の藤本絵梨華(36)は振り返る。
 市民の反応は鈍く、被爆者からさえ「勉強しろ」と叱られた。公立校などでは「政治活動に当たる」などと校内での活動が制限された。それでもめげずに、学校のバッグに署名道具を忍ばせ、帰りのバス停で高校生を見つけては署名をお願いしたりした。その年、最終的に数十人が約2万8千筆を集めた。国連欧州本部へ無事届くと「世界は変わるのでは」と感動した。今も署名活動をサポートし続けている。
 平野は「若者は平和運動に関心がないわけではない。大切なのはきっかけと目的意識だ」と言う。かつて自身も被爆2世団体との関わりから平和運動に目覚めたように。(文中敬称略)