浦上刑務支所の死刑場跡に入り、市民向けに遺構を説明する平野さん(下)=1992年、長崎市松山町、平和公園(平野さん提供)

浦上刑務支所の死刑場跡に入り、市民向けに遺構を説明する平野さん(下)=1992年、長崎市松山町、平和公園(平野さん提供)

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被爆2世を生きる 平野伸人の半生(7) 【保存】 遺構の活用に奔走

2020/07/04 掲載

浦上刑務支所の死刑場跡に入り、市民向けに遺構を説明する平野さん(下)=1992年、長崎市松山町、平和公園(平野さん提供)

浦上刑務支所の死刑場跡に入り、市民向けに遺構を説明する平野さん(下)=1992年、長崎市松山町、平和公園(平野さん提供)

【保存】 遺構の活用に奔走

 爆心地に近い長崎市の平和公園。被爆50年に向け改修工事中だった1992年、地中から旧長崎刑務所浦上刑務支所の基礎や死刑場が姿を見せた。大型の被爆遺構出現にマスコミも大きく報じた。
 長崎原爆戦災誌などによると被爆時、刑務支所と官舎にいた収容者や職員、家族ら134人は全員死亡。中国から強制連行され県内の炭鉱で働いていた約千人のうち約30人に加え、少なくとも十数人の朝鮮半島出身者が含まれていた。
 戦後、長崎では復興の下に被爆遺構が取り壊されていった。80年代後半には市立の銭座小、山里小、淵中などの被爆校舎が建て替えに伴い、相次いで姿を消した。そうした中での遺構出現。県被爆二世教職員の会会長だった平野伸人(73)は保存運動の先頭に立ったが、「死刑場は平和公園のイメージにそぐわない」との地元の反対もあり、当時の市長、本島等=2014年に92歳で死去=は基礎の一部保存にとどめた。
 全面保存は実現しなかったが、事態は別の展開を見せる。NBC長崎放送記者だった関口達夫(69)が同支所の収容者ら長崎に強制連行された中国人約200人の本籍を調べて手紙を送ると、遺族や生存者計12人から返信があった。平野は現地取材に同行、強制連行の実態に触れた。
 平野らも98年、約400人に手紙を出し、60人以上が返信。本格的に現地調査を始めたところ、「長崎で爆死したことさえ知らない遺族が多かった」。
 2003年、県内の炭鉱で働かされた中国人元労働者らが、炭鉱を運営していた三菱マテリアル(旧三菱鉱業)や日本政府などに慰謝料や謝罪を求め、長崎地裁に提訴。09年の最高裁で敗訴が確定した後も平野は同社と交渉を重ね、16年の和解にこぎつけた。
 本島とは遺構保存を巡り対立したが、共に在韓被爆者を訪ねたのを機に親交を深めた。日本の戦争責任に意識的だった本島。市長退任後には、中国人強制連行訴訟の「支援する会」会長に就いてもらい、08年に平和公園に追悼碑を建立した際も尽力してもらった。
 平野は同支所問題を機に、防空壕(ごう)など被爆遺構の保存運動も活発化させる。「最後の大型遺構」とみる旧県庁第3別館(江戸町)の存廃は未定だが「原爆関連の資料館として使えないか」と考える。「被爆者なき後、被爆の実相を伝えるのは遺構」。そう力を込め、続けた。「そして若者も」(文中敬称略)