【開拓】 裁判による解決模索
「出張日記」と記された192ページの小さな手帳が、平野伸人(73)の手元に残る。書いたのは戦時中、三菱重工業長崎造船所に徴用され被爆した金順吉(キムスンギル)=1998年に75歳で死去=。91年、県被爆二世教職員の会会長だった平野が在韓被爆者調査の際、「実態解明に役立ててほしい」と本人から受け取ったものだ。
日記に並んだ小さな崩し字の日本語。家庭裁判所調査官だった平野の父英二(故人)が読みやすい文字にしてくれた。そこには、金が徴用された45年1月以降、原爆投下の8月9日にかけ、空襲や朝鮮半島出身者の逃亡、給与未払いなどが事細かに記されていた。
日記を元に、金は未払い賃金の支払いや徴用、被爆に伴う慰謝料を三菱重工に求めたが、「らちが明かなかった」。92年、国と三菱重工を相手に長崎地裁に提訴。平野は後に「岡まさはる記念長崎平和資料館」(長崎市)を立ち上げる高實康稔=2017年に77歳で死去=らの協力を取り付け、訴訟を「支援する会」を結成した。1997年、地裁は徴用に絡む違法行為を認定したが、「(国が)旧憲法下で民法上の不法行為責任を負うことはない」として退け、最高裁で敗訴が確定。それでも平野は「裁判で解決する道を切り開いた」と意義を語る。
海外に住む被爆者の援護を巡っては、70年代、被爆者健康手帳の交付を日本側に求めた韓国人被爆者が勝訴。在外被爆者救済の道が開かれたものの、日本国外に出ると援護を打ち切るとする旧厚生省局長の「402号通達」が立ちはだかったままだった。
「被爆者はどこにいても被爆者だ」-。金順吉裁判以降、長崎、広島、大阪で韓国やブラジル、米国などの在外被爆者の訴訟が相次ぎ、長崎関連の約20件で平野は支援に奔走。各地で勝訴を勝ち取り、402号通達廃止(2003年)、在外被爆者が手当を申請する時に義務付けた来日要件の撤廃(05年)など、制度のひずみが是正されていった。長年、平野を支える弁護士の龍田紘一朗(79)は「足で回って問題を掘り起こし、告発した」と評する。
ただ、高齢化した在外被爆者が判決前に亡くなることも多かった。裁判で敗訴しなければ重い腰を上げようとしない被爆国の姿勢に平野は唇をかんだ。「歯がゆい。裁判は労力も金もかかるが、それしか道はなかった」(文中敬称略)