初めて訪韓し、寝たきりの被爆者を見舞う平野さん(右)=1987年、ソウル(平野さん提供)

ピースサイト関連企画

被爆2世を生きる 平野伸人の半生(5) 【洗礼】 日韓の差にショック

2020/07/02 掲載

初めて訪韓し、寝たきりの被爆者を見舞う平野さん(右)=1987年、ソウル(平野さん提供)

【洗礼】 日韓の差にショック

 被爆50年の1995年、平野伸人(73)が会長を務めていた県被爆二世教職員の会などが韓国で企画したアジア初の原爆展は、現地で猛烈な抗議行動に遭う。惨状を伝える被爆写真に「原爆はひどい」との声もあったが、圧倒的に大きかったのが「日本の植民地支配がひどい」との反発だった。もっとも、日韓の認識の差を痛感したのはこれが初めてではない。
 87年、大阪の被爆2世の呼び掛けで、平野らは韓国の被爆者や2世と交流する訪韓団を初めてつくった。約200人が集まった会場。団長の平野が「同じ被爆者や2世として核兵器をなくす運動をしよう」と呼び掛けると、会場から「『同じ』ではない」と異論が噴出、“洗礼”を受ける。
 「在韓被爆者は日本の植民地支配下に労働力として海を渡り、原爆に遭った。帰国後も日本人のように援護を受けられず、苦しい生活を送った。『形成過程』が違うのだ」-との指摘に、「目からうろこが落ちた」。
 翌日、被爆者宅を訪問して回り、さらに衝撃を受ける。全身ケロイドで放置されたような人、やけどで手の指がくっついたままの人。「ひどい」。初めて目にする現実に心が痛んだ。
 当時、日本を出た被爆者は援護の対象外とする旧厚生省局長の「402号通達」があった。医療費や手当給付は受けられない。「夏に日本人が来て『かわいそう』と言うが、続けて支援する人はいない」。ある被爆者がつぶやいた。平野は誓う。「知った者の責任としてちゃんとやります」
 長崎に戻り、さまざまな団体に在韓被爆者らの支援の必要性を説いた。だが、関心は薄く反応は芳しくない。平野は大阪に拠点を置く「韓国の原爆被害者を支援する市民の会」の活動にも加わった。ある日、韓国原爆被害者協会の会員約2500人のうち、長崎で被爆したのは79人と少ないことに気付く。
 90年、長崎の教職員仲間らと現地調査に乗り出す。98年の16次調査までに500~600人の被爆者と会い、うち長崎で被爆した人は約200人を数えた。調査のたびに埋もれた被爆者が掘り起こされていった。
 現地調査時、被爆者一人一人に「調査だけでは申し訳ない」と自腹でカンパした。長崎友愛病院(長崎市)の協力も得て、来日すれば援護を受けられる被爆者の渡航と入院治療を世話した。「砂漠に水」の運動は、やがて根本的な解決を目指す運動に変わっていく。(文中敬称略)