【運命】 教職員の会を組織化
「運命の被爆40年」。平野伸人(73)は1985年をこう表現する。既に被爆者の高齢化が指摘され、「被爆の実相や平和運動を引き継ぐのは被爆2世」という機運の高まりをひしひしと感じていた。
その年、被爆2世教職員による全国組織の設立を目指した会議が東京で開かれることになった。勤務していた西彼時津町立時津東小から同僚が参加予定だったが風邪をひき、代役が回ってきた。
高校時代、同じ2世の同級生を白血病で亡くした平野。東京では、放射線被害の遺伝の可能性を指摘する研究者の講演に動揺し、わが子にも影響が出ていないか不安に駆られた。熱心な広島や大阪の2世教職員とも交流し、2世運動に「使命を感じた」。
早速、県内の2世教職員の掘り起こしに取り掛かる。若い教職員宛てに文書を1千通以上配り、結集を呼び掛けた。86年、集まった約20人で県被爆二世教職員の会を結成し、会長に就任した。
第1回の学習会では当時、長崎大経済学部長で後に原水爆禁止日本国民会議(原水禁)議長となる岩松繁俊(92)が講演。原爆は被害と日本の加害責任の両面から考える必要があると説かれ、「会の方向性に影響を受けた」。
会は親の被爆体験の聞き取りを開始した。平野が母に詳しく聞いたのもこのころだ。88年設立の全国被爆二世教職員の会でも会長に就き、2世の援護問題と被爆者運動の継承、平和教育の推進を活動の柱に据えた。同年には全国被爆二世団体連絡協議会も組織化される。
冷戦末期の80年代後半、世界で核実験が相次ぎ、長崎の被爆者は毎週のように座り込みをし、抗議の声を上げていた。ある日、平野は上五島に赴任していた小学校教諭で被爆者の山川剛(83)の存在をニュースで知る。山川は現地で独自に座り込みを始め、児童と一緒に風船にヒマワリの種と平和のメッセージを付けて飛ばす活動もしていた。「行動で平和をつくる発想とパワー」に刺激を受けた平野が長崎で座り込みに参加すると「若いので喜ばれた」。記者の質問に答えられるように核情勢を必死に勉強した。
若者の関心を高めようと、学校の枠を超えた「こども平和の集い」を始め、稲佐山で企画された音楽行事などに携わった。がむしゃらだった。「若き平和運動の旗手」と呼ぶマスコミも出てきた。
(文中敬称略)