【今伝えねば】 生き残った者の義務
民家や商店が並ぶ佐世保市宮田町。通りを一つ山手に入ると、雑草が生い茂る空き地がある。「ここに来ると一瞬で思い出す」。佐世保中央保育園理事長の梯(かけはし)正和(83)は、草木の奥にわずかに見える防空壕(ごう)の入り口に視線を向けた。
「ドドンドドン」。保立国民学校3年、当時8歳だった梯の耳に突然、高射砲の音が聞こえた。その日、病死した父親の命日に合わせ、疎開先から自宅に戻り、床に就いていた。
跳び起きて外を見ると、無数の火花が夜空いっぱいに広がり、白色のカーテンのように見えた。自宅近くの穴に逃げ込んだが「ここは危ない」と誰かの声が聞こえた。きびすを返し、民家の裏山にある大きな防空壕へと走った。
何メートルか先を、遊び仲間の同級生が同じように壕に向かっているのに気付いた。その刹那、ドスッという鈍い音と同時に彼が倒れた。焼夷(しょうい)弾が直撃したのか、背中がえぐれていた。彼は般若のように目を見開き、「死にたくない」と叫ぶように手を突き出していた。
「次は自分かもしれない」。梯は「死への恐怖」で助けることもできず、防空壕へと急いだ。
梯は、空襲の夜に見たものや、感じたことをずっと胸にしまったまま、家族にも話してこなかった。心の中に、生き残ったことへの「後ろめたさ」があった。どうして今回取材に応じたのか。梯は言った。「平和は当たり前にあるものではない。それを伝えるのが、生き残った者の義務ではないかと思ったんです」
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佐世保市出身で、現在福岡市で暮らす林幸子(89)は最近、空襲の記憶を本にまとめようとしている。当時、県立佐世保高等女学校の3年生。あの夜が明け、生死も分からぬ赤ん坊を抱えた母親や、大やけどを負った人たちの姿を目の当たりにした。遺体に手を合わせることしかできなかった。
悲惨な空襲を生き延びた当時の同級生たちは、多くがこの世を去った。夫の仕事の都合で、福岡に移り住んでからは空襲のことを話すことなどなかったが、元気なうちに空襲の体験を本にして、佐世保の子どもたちに贈りたいと考えるようになった。「もう二度と同じ体験をさせたくない」。林はそう願う。
戦争体験者に残された時間は多くはない。「どうにかして記憶を残したい」。そんな切実な思いが、体験者たちを駆り立てる。(文中敬称略)