【記憶】 祖母の背中のガラス
梅雨入り翌日の6月12日、平野伸人(73)の姿は、母良枝(101)が暮らす恵の丘長崎原爆ホーム(長崎市)にあった。「長生きしてね」。いたわる平野に「あなたも頑張ってね」と穏やかな笑みを返す。息子の平和活動にも「できることをすればいい」と昔と変わらぬ理解を示した。
1945年8月9日。良枝は爆心地から3・6キロの梅香崎町の自宅で被爆した。良枝と、平野の姉で当時2歳だった彌英子は無事だったが、平野の祖母ミヨは背中一面に爆風で砕け散った窓ガラスが突き刺さった。
姉は空襲警報が鳴ればそうしていたように、おんぶひもを手に祖母にしがみついた。祖母は気丈に背負い、3人で寺町の墓地へ避難。母は祖母の背中のガラスを箸で一つ一つ取り除いていった。姉は被爆後、光を恐れ、押し入れの中で食事を取ることもあった。
旧満州(今の中国東北部)に出征していた父英二=96年に79歳で死去=は間もなく長崎市に戻り、家庭裁判所の調査官となる。46年12月、平野が誕生。「戦後の焼け野原に生まれた家族。みんなかわいがってくれた」
十人町の自宅から大橋地区の親戚宅によく行き、廃虚の浦上天主堂で鬼ごっこをしたり、浦上川で被爆瓦を拾ったりした。市立佐古小(今の仁田佐古小)時代は被爆で傾いた校舎の廊下でビー玉を転がして遊んだ。
長崎大付属中から県立長崎南高へ進学。生徒会長となり、フォークダンス大会を企画したり、生徒会新聞を増やす資金調達のため広告取りをしたりした。生徒会誌に「『不言実行』もよいが生徒会活動はこれではだめ、よく言いよく実行する。モットーは『有言実行』」と寄稿。行動派の一端をのぞかせる。
被爆2世だった同級生が白血病に倒れた翌年、祖母ががんでこの世を去った。荼毘(だび)に付した時の記憶が脳裏に焼きついている。骨を拾う際、「きらっと光った」。被爆後約20年も体内に残ったガラスだったのだろう。母は「おばあちゃんごめんね」と泣いた。
被爆者で、東京電力福島第1原発事故の被災地支援などで行動を共にした「長崎の証言の会」元代表委員、廣瀬方人=2016年に85歳で死去=は高校時代の恩師だ。当時から「自分には使命がある」と話し、被爆者運動に熱心だった。祖母の背中のガラスの記憶。原爆の存在は平野の意識に静かに溶け込んでいった。(文中敬称略)