1945年3月、東京から北高来郡湯江町(現諫早市)に引き揚げてきた柴谷(旧姓松本)繁子と両親は、伯父夫婦からあてがわれた8畳ほどの部屋で暮らし始めた。夜は空襲におびえることなくゆっくり眠ることができた。
農家だったので繁子は慣れない手つきで農作業を手伝った。米や野菜もあり食べる物には困らなかった。古里の生活に安心したのか、父は繁子に湯江にとどまるよう言った。繁子は参謀本部に「もう東京には戻りません。お許し下さい」と手紙を書いたが、「自分だけ逃げ出した」との罪悪感にとらわれた。
ある夜、遠方の対岸の空が赤く染まっていた。伯父が「(福岡県)大牟田が空襲でやられている」と言った。「ああ、あの下でまた怖い思いをしている人がいる…」と思うと、かわいそうでならなかった。竹やり訓練があった時は「何の役にも立たないのに」と冷めていた。
8月9日。朝から父と伯父夫婦の4人で田んぼの草取りをしていた。水面がピカッと光り、ドーンと大きな音が響いた。辺りが急に暗くなったので、慌てて家に戻った。しばらくすると、どこかに爆弾が落ちたらしいという話が伝わってきた。「戦争が追い掛けてきた」と怖くなった。
長崎から戻ってきた親戚が大けがをしている、長崎の工場に動員されていた別の親戚が帰ってこない-。長崎で何かが起きていることは分かった。伯父は数日後、親戚捜索のため長崎に入った。この時、原爆の残留放射線を浴び、戦後、被爆者健康手帳を取った。
15日、終戦。父は実家とはいえ間借りしている手前、朝早くから夜遅くまで必死に働いた。だが、いずれ伯父の息子たちが戦地などから帰ってくる。湯江に疎開していた人が長崎の家を貸してくれることになり、46年3月、家族3人で引っ越した。
繁子は電気工事業者の事務員、父は工員となった。しばらくして繁子は仕事で事務所に出入りしていた男性と結婚し、身ごもった。父は慣れない仕事もたたったのか、脳卒中で倒れた。再び湯江の実家で養生することになったが、農業ができない母は東京に帰ってしまった。48年1月、衰弱した父をトラックの荷台に布団ごと乗せて長崎医科大付属医院(現長崎大学病院)まで運んだ。まだ県内に救急車は走っていなかった。(文中敬称略)
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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・8 <8・9> 戦争追ってきた
2020/03/08 掲載