1945年3月10日、東京大空襲で焼け出された柴谷(旧姓松本)繁子は、父の古里、長崎県北高来郡湯江町(現諫早市)に、家族3人で向かうことになった。この日はいったん、千葉県で乾パン工場を営む父の知人宅に泊めてもらおうと歩いて行った。
途中、男の人が兵隊に召集された時に持参する奉公袋を提げて、焼けた家の前に立っていた。隣に寄り添うのは幼子を背負った妻。この非常時に妻子を残し入隊せざるを得ない不遇を「お気の毒に」と思いながらも、繁子はどうすることもできなかった。
知人宅に何泊したかはっきりしない。父はここでメリケン粉をもらい、これが後に役に立つことになる。3人は鉄道の乗車券を発行してもらえるよう罹災(りさい)証明書を入手し、東京駅から西行きの列車に乗った。
だが、大阪で降ろされた。大阪も13日深夜から14日未明にかけて大空襲に遭い、列車はそれ以上進めなかった。繁子が不安を覚えていると、両親が地元の女性と話をして、そこに一晩泊めてもらうことになった。女性は食べるものがなく、父がかついでいたメリケン粉を提供することで話がついたようだった。女性宅でメリケン粉をこねてふかしたまんじゅうを4人で食べたが、砂糖がなく味気なかった。
両親と一緒に泊めてもらった千葉と大阪の家はいずれも障子や襖(ふすま)をすべて取り外していた。焼夷(しょうい)弾による火災被害を少しでも抑えるため、国が指導していた。今考えると「ほとんど意味がない対応」(繁子)だった。
翌日の早朝、神戸から列車に乗り九州に向かった。よろい戸は下ろされ外は見えなかったが、父は九州に入るとどの辺りを走っているか分かっていた。しょぼくれている母に「もう少しだ」と言って励ました。
丸一日かけて湯江に着いた。繁子と母にとっては初めての地。朝日が屋根瓦の露を照らし、鶏が鳴いていた。商店や民家が立ち並ぶ駅前を抜けると、田畑が広がっていた。あまりにのどかな風景。東京とは別世界だった。
父の実家は農家で、田畑の中にあった。父の実兄である伯父と伯母が突然帰ってきた3人に驚いた。防空頭巾やオーバーは火の粉で穴だらけ。繁子の靴の底は抜けていた。
「かんじん(物乞い)のごたる」。伯母が言った。
(文中敬称略)
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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・7 のどかな湯江 別世界
2020/03/07 掲載