大空襲のさなか、荒川に着いた柴谷(旧姓松本)繁子と母は、大勢の避難者がしているように、その場でうずくまった。後ろから避難者が次々と押し寄せ、膝を突いたまま、前の人の尻に肩を押し付け、ずるずると進んだ。空からはゴーゴーとごう音が響き、火の粉や煙が舞っていた。家財道具を積んだ他人の荷車には火がついた。怖くて顔を上げられなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。朝日が差して空を見上げると、米軍機の影はなかった。この時投下された焼夷(しょうい)弾は2時間余りで約1700トンとされ、東京の約4割が焼失した。
繁子は非常袋を、母は背負っていたリュックをどこかで失っていた。しばらくするとトラックが現れ、降りてきた人たちが川に浮いていた多くの遺体を引き揚げ、竹のすのこに包んでいた。火の粉から逃れるため川に飛び込んだのか。それとも群衆に押され川に落ちたのか。
母と2人で自宅に向かった。何もかもが燃え、一面焼け野原だった。途中、髪の毛も焼けてしまった人がうつぶせで亡くなり、おなかの下から赤ちゃんの足がのぞいていた。長くは見ていられなかった。
自宅跡には、荒川方面に避難していた父が先に戻ってきていた。繁子が庭に埋めていた、一張羅の着物が入った缶を父が掘り出した。ふたを開けて着物をつまむと、蒸れてパラパラとちぎれた。
近所の女性がぬれたねんねこ半纏(ばんてん)を着たまま、ぼうぜんと立っていた。「赤ちゃんはどうしたんだろう」と繁子が思っていると、背負ったまま川に飛び込んだが足が届かず、もがいたら赤ちゃんだけが抜けてしまった、と近所の人が教えてくれた。当時、そんな話はいくらでもあった。
太陽が高くなるにつれ、繁子は煙に長時間さらされた目を長く開けていられなくなり、近くにできた救護所に診てもらいに行った。負傷者の列に並んでいると、ちょうど参謀本部の上官が通り掛かった。妻の元へ向かっている途中だった。繁子は「焼け出されて何もありません。参謀本部には行かず、父の田舎に戻り生活を立て直してきます」と申し出ると、上官は「分かった」と答えた。
救護所に来る前、父から実家のある長崎に帰ると言われていた。お国のために参謀本部でまだまだ頑張りたいと思っていたが、この時、張り詰めていた緊張の糸が切れた。「私の戦争は終わっちゃった」
(文中敬称略)
ピースサイト関連企画
被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・6 赤ちゃん失いぼうぜん
2020/03/06 掲載