「B29の大群は、焼夷(しょうい)弾を弾倉いっぱいに積載し、東京湾上三〇〇〇メートルから、水面すれすれを滑空しつつ、下町地区へと向かっていた。アルミの破片を撒(ま)いて、日本軍の電波探知機を無能にし、かろうじてとらえたサーチライトには、いち早く一二・七ミリ機関砲弾を浴びせかけて、その光源を破壊している。一〇日零時八分。先行する一番機は、北北西の強風をついて、深川地区に侵入。またたくまに第一弾を投下した」(東京大空襲・戦災誌、一部略)
1945年3月10日、東京を約300機の米軍機B29が強襲した。最初の焼夷弾投下から7分後の午前0時15分、不気味な空襲警報が闇を切り裂いた。江戸川区逆井(さかさい)の自宅で寝ていた柴谷(旧姓松本)繁子と両親も跳び起きた。繁子はすぐそばに置いていた防空頭巾をかぶり、もんぺをはいてオーバーを着ると、非常袋を肩から掛けた。父は何か支度をしているのか、繁子と母に「先に逃げろ」と言う。
隣組の近所に逃げ遅れた人がいないか確認する母を、火の粉が舞う中、自宅前で待っていた。周りの家はボンボン燃えていた。突然、上空から焼夷弾がバラバラと降ってきた。近くの家の屋根を突き破ったり、トタン屋根を滑り落ちたりして発火。隣家の軒に当たった、鈍い緑色の焼夷弾が繁子の前に落ちたが、幸いにも不発だった。
戻ってきた母とぴったり寄り添い、客用の高級掛け布団を頭からかぶり、表通りに出た瞬間、布団は強風で吹き飛ばされた。黒煙が充満し視界は遮られている。煙の中から警防団の人が姿を現した。「どっちに逃げたら良いでしょうか」と尋ねる繁子に「自分で考えてくれ」と告げて去った。
立ちすくんでいると、そばの小川付近は煙が少なく、小道が浮き上がって見えた。ここを下れば、荒川につながっているのは分かっていた。
母とはぐれないようお互いにしっかりとつかみ、下を向いて黙々と歩いた。途中の家々は燃えて煙が渦巻いていたが、不思議と炎が小道まで下りてくることはなかった。
どのくらい歩いたのだろう。荒川に着くと、川原は足の踏み場もないほど人であふれかえっていた。荷車に家財道具や家畜の鶏を積んで来た人もいた。誰もが膝を突いて頭を下げ、うずくまっていた。
(文中敬称略)
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2020/03/05 掲載