東京大空襲・戦災誌によると、米軍による東京への初空襲は1942年4月18日。その後、約2年半は東京上空に米軍機は姿を見せなかったが、44年11月から本格的に空襲が始まった。
ある日、柴谷(旧姓松本)繁子が市ケ谷の参謀本部で働いていると空襲警報が鳴り、同僚たちと地下壕(ごう)に避難した。しばらくして地上に出ると、数キロ先で煙が上がっていた。「銀座までやられるなんて…」。繁子は空襲に神経質になり、顔を上げて外を歩けなかった。低空飛行の米軍機B29の乗組員と顔を合わせると機銃で狙われるとも言われていた。
このころ週に数回、仕事帰りに途中の駅で降り、ある侯爵の自宅で速記を習っていた。職場は上官や同僚に気を使い自由に話せない空気がまん延し、気分を変えるためにも勉強がしたかった。その家は、畳の上にじゅうたんが敷かれ、丸いすが置かれていた。侯爵は白足袋に紬織(つむぎおり)の和服姿。非常袋を肩から提げたもんぺ姿の繁子たち庶民とは大違いだった。「ここは戦争とは関係がないのか」と思わずにはいられなかった。
ある夜、速記教室が終わり、いつものように家路を急いでいた。駅を出て防空頭巾を深くかぶり、上空から見えないよう家の軒下を伝うように歩いていた。どの家も灯火管制で真っ暗。すぐ後ろを黒い物がついてくると思い、振り返ると自分の影だった。ふと軒下から出て空を仰ぐと、雲はなく、丸い月が煌々(こうこう)と照っていた。最近はゆっくりと月を眺めることもなかった。
立ち止まって上空を見上げたのは、速記が楽しくなり、心に少し余裕が生まれていたのかもしれない。「明日はどうなるか分からない身。早く平和な日が訪れてほしい」と月に願った。しかし、その願いはそう時を置かずに打ち砕かれた。
東京大空襲・戦災誌によると、45年3月9日正午ごろから曇天に強風が吹き荒れ、夕方から夜になるにつれて一層激しくなった。午後10時半、警戒警報が鳴り響いた。太平洋に面した房総半島を旋回中だったB291機が東京上空に侵入したが、そのまま機首を返して海上に飛び去った。翌10日が「陸軍記念日」で大空襲があるかもしれないとのうわさは流れていたが、それも終わったようだと人々が安堵(あんど)する中、B29の大群が迫ってきていた。
(文中敬称略)
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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・4 早く平和を 月に願う
2020/03/04 掲載