1937年春、柴谷(旧姓松本)繁子は小学校を卒業し、巣鴨女子商業学校に進学した。その年の7月、中国・北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突。日中戦争が始まった。
繁子はそろばんや裁縫などを学びながら、弓や謡曲にも熱心に取り組んだ。ダンスの授業で滝廉太郎作曲の「荒城の月」に合わせ、大きな扇子を手に踊った時は、少女から乙女になった気分でうきうきした。繁子が学校生活を満喫する中、戦争は暮らしの中にひたひたと入り込んできた。
翌38年には人と物を戦争に集中させる国家総動員法が成立。次第に砂糖、マッチ、米、小麦、酒、魚、衣料品、せっけん、燃料などあらゆるものが配給になった。現在、95歳の繁子は「一気にではなく、じわーと生活が変わっていった」と、その怖さを語る。
だが当時は戦争に積極的に協力しようとした。上京していた親戚の出征が決まった時、父は自宅で祝いの席を設け、駅で見送った。50歳近い父、母、繁子の3人暮らしの家から兵隊を送り出すことはなかった。近所の若者が戦地に赴くたび、父は肩身の狭い思いをしていたのかもしれない。
繁子は商業学校を4年で卒業し、陸軍東京経理部で働き始めた。薬学専門学校に進みたかったが、社会全体が「お国のために」との空気に包まれ、軍関係の仕事を希望した。この少し前、父は兵隊に人を取られた菓子工場で軍需品の乾パンを作るようになり、家も近くの江戸川区逆井(さかさい)に引っ越していた。
東京経理部にはそう長くはおらず、参謀本部の経理担当に移った。41年12月8日、日本軍が米国ハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入。繁子は上官に指示された数字を計算したり、書類の読み合わせをしたりと職務に励んだ。国のために命をかけて戦った人や遺族に渡すお金だから、間違いがあってはいけない。そんな一心だった。
ある日、将校の会議が開かれる部屋を訪ねた。ナイフやフォークがきれいに並び、皿には白いパンが置かれていた。物資不足の中、「日本はまだ力がある」と感じた。時々、繁子たちにもパンや肉の配給があった。休日に警報が鳴り、自宅から参謀本部に出向くと、帰り際に上官が門の外で「ごくろうさん」とこっそり砂糖をくれた。
だが戦局は確実に悪化していた。(文中敬称略)
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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・3 「お国のため」陸軍に
2020/03/03 掲載