幼い柴谷(旧姓松本)繁子さんを抱く母親キヨさんと父親大蔵さん(柴谷さん提供)

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被爆・戦後75年 記憶をつなぐ 東京大空襲編・2 誕生日に二・二六事件

2020/03/02 掲載

幼い柴谷(旧姓松本)繁子さんを抱く母親キヨさんと父親大蔵さん(柴谷さん提供)

幼い柴谷(旧姓松本)繁子さんを抱く母親キヨさんと父親大蔵さん(柴谷さん提供)

 柴谷(旧姓松本)繁子の幼いころの記憶は、富山県の実母キヨの古里から始まる。母は繁子を生んで約1年半後の1926年7月に病死。長崎県北高来郡湯江村(現諫早市)出身の父、大蔵は船に乗って商売をしていたようで、繁子は母の実家に預けられ祖父にかわいがられていた。
 幼いころ、いとこの男の子たちと遊んでいると、コートを着た男性が現れた。それが父親だとは分からなかった。ただ悪い人ではないと直感した。祖父と父の間でどんな話がされたのか知らないが、父と一緒に駅に向かった。出発前の汽車の中で父と向かい合わせに座っていると、祖父がホームに駆けつけた。手拭いを握り締め、ほろほろと涙を流していた。窓からは夕日が差していた。
 父に連れられて着いたのは東京・落合。2階建ての大きな下宿だったように思う。奥の部屋で数年間、父と若い女性の3人で暮らした。女性は、小学生になった繁子が学校から戻るとミシンや琴を教えてくれた。その後、父は女性と別れ、繁子と2人で池袋の借家に引っ越した。このころ父は菓子の業界紙記者として、自転車で菓子店や問屋を取材して回っていた。
 繁子は下校後、近所で三味線を習ったり、当時は珍しかった学習塾で勉強したりして過ごした。夕方、父がチリンチリンと自転車のベルを鳴らし帰ってきた。朝晩の食事は父が準備していたが、厚めに切ったジャガイモがみそ汁にごろっと入っていたこともあった。でも、伸びた髪を切ってくれるなど男手一つで懸命に育ててくれた。
 小学4年のころ、父は別の女性と結婚。相手も再婚だった。それまでは帰宅しても1人だったが、母がいる。繁子が学校から帰ると、お菓子をさっと出してくれる。栗ご飯やまつたけご飯など季節の料理も作ってくれ、裁縫も教えてくれた。初めて母親の温かさを知り、繁子は喜びに満ちていた。
 36年2月26日、繁子11歳の誕生日。未明に陸軍の青年将校らが約1500人の兵を率いてクーデターを起こし、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣らを殺害した。「二・二六事件」だ。戒厳令が出たのは翌27日未明だが、繁子は当日の26日もラジオから外出を控えるよう求める放送が流れていた記憶がある。学校には行かず、退屈な時間を過ごした。「せっかくの誕生日なのに…」。時代は軍事色を強めていた。(文中敬称略)