長崎平和推進協会に入会して1カ月がたった1994年9月。山脇佳朗(85)は、神戸から来た修学旅行生を相手に、初めて被爆体験を講話した。話すうちに、どうしてもつらい記憶がよみがえる。涙をこらえながら話したため、途中でおろおろしてしまい、うまく話せなかった。
それ以降、「機械的」に話す訓練に取り組んだ。テープレコーダーの音声を意識し、感情を抑えて話す練習を繰り返した。そのうちに徐々に自信を持って話せるようになった。
2003年10月。長崎・広島両市が毎年海外で開いている原爆展に同行し、英国で初めて外国人を相手に被爆体験を話した。
約1時間の講話に聴衆は静かに耳を傾けてくれた。「原爆投下直後の気持ちは」「何年くらいで復興したのか」-。熱心な質問も出た。だが通訳を介したせいなのか、あまり手応えを感じられなかった。
帰国後、長崎でも外国人を相手に講話する機会が増えた。ところが通訳を介して話すたびに、聞き手との間に距離を感じた。
向学心に富む山脇は、既に定年退職が近づいた1992年ごろから、退職後に無為な時間を過ごしたくないと思い、通信教育の教材を使って1人で英語を学んでいた。
英語で語れば、よりダイレクトに原爆の残酷さを外国人に伝えられるのではないか-。そう考え、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館のカナダ人スタッフに、英語の原稿や発音をチェックしてもらう「特訓」を3年ほど続けた。
2010年9月。山脇は外務省から、核兵器の悲惨さを世界に伝える初代の「非核特使」を委嘱された。寝耳に水のことで驚いたが、使命の重さに身が引き締まる思いを感じ、任務地の英国へ向かった。
現地では、マンチェスター市で中高生を相手に約40分間、英語で講話した。特訓を積み、英語の発音や原稿の文章にはかなり自信があった。講話の途中、1人の女子生徒が泣きながら聞いているのに気付いた。
「やはり英語で話してよかった。もっと英語で伝えたい」。決意が固まった。
以来「英語の語り部」として活躍の場が広がった。被爆体験を語る時には、原爆の「熱線」「爆風」「放射能」の恐怖が伝わるように意識する。そして英語で「長崎を最後の被爆地にしてほしい」と語り掛けて締めくくる。それが山脇の流儀だ。
(文中敬称略)
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8月9日のメッセンジャー 被爆者・山脇佳朗の歩み・3 「世界へ」 伝えたい 英語特訓3年
2019/08/04 掲載