山脇佳朗さんと家族。4人の子どもに恵まれた=1981年、長崎市(山脇さん提供)

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8月9日のメッセンジャー 被爆者・山脇佳朗の歩み・2 「目覚め」 講話の“説得力”に衝撃

2019/08/03 掲載

山脇佳朗さんと家族。4人の子どもに恵まれた=1981年、長崎市(山脇さん提供)

 
 山脇佳朗(85)の一家は原爆で大黒柱を失った。生みの母親を1歳の時に亡くしていたが、継母が7人の子どもを養うため、生命保険の外交員やせっけんの行商をして朝から晩まで働いてくれた。
 読書や勉学を好んだ山脇は理科の教員になりたかった。しかし家族を養おうと、新制中学を卒業した1949年、父が務めていた三菱電機に入社した。94年に定年退職するまで品質管理部門一筋で働いた。
 会社では学歴の壁に苦しめられた。中卒の社員はほとんど昇格せず、昇給もわずか。年がたつにつれ、高卒や大卒の同期たちに、立場や給与で大きく水をあけられた。
 「学歴で社員に差をつける会社を変えたい」。56年、労働組合の役員選挙に立候補し、改革の必要性を強く訴えて当選した。会社には目をつけられたが「敢然と会社と闘い続けたのは誇りだ」と胸を張る。
 私生活では60年に同僚の女性と結婚。4人の娘に恵まれた。裕福でなくとも幸せな生活を送った。
 定年退職が近づいた94年のある日。長崎平和推進協会が、不足している語り部を募集しているという新聞記事を読んだ。
 「なぜ被爆者を引っ張り出す必要があるのか」と怒りを覚えた。兄弟3人で父の遺体を置き去りにして逃げた悲惨な経験は自身の負い目であり、思い出したくない過去だ。家族にさえ、ほとんど話したことはなかった。
 「継承活動を語り部に頼る必要はない」と反発の思いを込め、被爆証言のビデオを活用するよう求める内容の投書をすると、同年4月の新聞に掲載された。
 それから数日後。平和推進協会の担当者が「話したいことがある」と連絡してきた。そうして初めて語り部の被爆講話を聞くために足を運んだ。
 生の講話に「説得力が違う」と衝撃を受けた。何よりも、被爆者の話に中学生たちが真剣に聞き入る姿に感動を覚えた。
 「被爆者の生の声が、原爆の残酷さを一番伝えることができる」。考えはいつのまにか変わっていた。担当者の「ぜひ協力してほしい」という求めに応じ、同年8月、同協会の継承部会に入会した。
 山脇は時折、語り部として目覚めた経緯を、ユーモアを交え、こう語る。
 「ミイラ取りがミイラになった」 (文中敬称略)