遺志継ぐ責任重く
ファイルから名簿を取り出すと、男性は深いため息をついた。名簿には、修学旅行生らに被爆体験を語る長崎平和推進協会継承部会に2007年4月時点で所属した40人の名が連なる。だが、その半分ほどは横線が引かれていた。
「線が引かれた人は部会を抜けた。ほとんどは亡くなった」。前部会長の末永浩さん(81)は説明すると、遠くを見詰めた。
部会長だった14年3月、継承部会は会員資格を被爆者以外にも広げるかどうか検討する小委員会を立ち上げた。「被爆者に残された時間は限られており、今後の活動をどうするか議論する必要があった」
小委員会では、被爆者以外にも門戸を広げることになった。だが、その後の総会では「自ら体験を語ることが聞く人の心を打つ」などと異論が噴出。結局、会員資格の拡大は見送りとなり、代わりに、幼かったため被爆当時の記憶はないが、家族の証言などからあの日を語れる”若い被爆者”の勧誘に注力した。
継承部会の会員数は現在42人。10年前の規模を維持しているが、被爆当時5歳以下だった会員は1人から8人に増えた。8月30日に88歳で死去した谷口稜曄(すみてる)さんのように、惨状を生々しく語れる会員は確実に減っているという。末永さんは「今語れる被爆者は、どうすれば説得力のある話ができるか、講話の構成や語り口を工夫しないといけない」と指摘する。
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「継承部会の役割は被爆体験をリアルに忠実に話して原爆の残酷さを伝えること。それができるのは記憶が鮮明に残る被爆者だけ」。1994年から部会に所属する山脇佳朗さん(83)は、そう信じていた。だが今は新たな「継承」の形を見つけたと感じている。
今年6月、長崎市の事業として山脇さんの被爆体験を高校生に語る松野世菜さん(19)=長崎純心大1年=の姿を見守った。約1年をかけて伝えた72年前の被爆の実相に、松野さんの反核の思いが上乗せされていた。耳を傾けた約180人の表情は真剣で、涙を流す人もいた。
「当初は被爆者以外の人に語り部が可能なのか不安だったが、聴衆の反応を見て、自分が死んでも原爆の残酷さを伝えることができると安心した」
継承を巡り、模索を続ける被爆地。だが、それをあざ笑うかのように3日、北朝鮮が6回目の核実験を行った。山脇さんは「私が生きている間に核廃絶はありえない」と肩を落とす。被爆者の数が減り続ける今、核の非人道性を訴える媒体として被爆体験をもっと活用してもらいたいと感じている。「私たちの過酷な体験の代弁者となる『伝えてくれる人』を増やしていかなければいけない」