唯一の戦死、「事故」に
朝鮮戦争が勃発した1950年6月、広島、長崎に続き核兵器が使われるのではないかとの危機感が国際社会で高まった。これに対し核兵器禁止を求める署名が世界で5億筆、米軍占領下の日本でも645万筆が集まり、米国に使用を思いとどまらせる力になった。ただ、その裏で平和憲法を掲げる日本がこの戦争に参加し、戦後唯一の戦死者を出していたことはあまり知られていない。
50年9月。北朝鮮軍が自国の近海に配備した機雷に苦戦していた米軍は、日本政府に掃海作業の後方支援をひそかに命じた。それは日本の憲法が認めない「集団的自衛権」を行使する構図だった。当時の政府は違憲の可能性を知りながら、極秘に海上保安庁に「特別掃海隊」を編成し、米軍が北朝鮮へ上陸するための作戦に加わった。10月17日午前3時21分、北朝鮮東部の元山(ウォンサン)沖で作業をしていた掃海艇が機雷に接触。船体は粉々に爆破され、一人の若い職員が命を落とした。
「弟はなぜ死ぬことになったのか。やるせなさは今も消えていない」。大阪市の中谷藤市(90)は殉職した弟、坂太郎=当時(21)=の遺影を見詰めて語った。
弟の死から約1週間後。山口県で暮らす父の元に米軍の将校が訪れ、日本人の「戦死」が公になれば国際問題になると訴え、瀬戸内海での「事故死」にしてほしいと強く迫った。生真面目な父はそれを受け入れ、家族に厳しく口止めした。当時の海保長官が約30年後に回顧録を公表するまで弟の戦死は歴史から消されていた。
戦争放棄をうたった憲法9条の下で弟は戦争に巻き込まれた。それでも中谷は「9条がなければ日本はほかの戦争にも参戦し、もっと多く犠牲者が出ていたはず。9条は堅持するべきだ」と断言する。
今、朝鮮半島を巡る情勢が再び緊張感を増している。日本国内では防衛力強化や9条改正による戦力明記を求める声が目立つようになったが、中谷はこう警告する。「自国の防衛は現行憲法が認める範囲でできる。問題は自分たちの都合で憲法解釈を変え、集団的自衛権まで認める政府の姿勢だ。このままでは再び他国の戦争に巻き込まれる。その犠牲となるのは国民だ」
中谷の自宅には、弟が戦地へ出港する直前に父へ送った手紙が残っている。
「突然米軍の命により、朝鮮方面へ行く事になりました」-。中谷は再び同じような事態が起きるように思えてならない。=敬称略=