38年の“財産”次世代へ
今年4月、深堀好敏(88)は長崎原爆の日に「平和への誓い」を述べる被爆者代表に選ばれた。記者会見で初の公募に手を挙げた理由を尋ねられると、「今年は一つの区切りと捉えている」と明快に答えた。原爆投下翌日の惨状を撮影した旧陸軍カメラマン故山端庸介の生誕100年となる今年は、原爆写真の収集・調査に半生をささげてきた深堀にとっても節目のように感じられるという。
深堀は研究者のように写真を徹底して調べ上げてきた。被爆者団体から声が掛かったこともあったが会員にはならず、反核の座り込みや署名活動にもほとんど参加しなかった。「団体に所属すると、いくつもの活動に関わらなければならないが、自分にはできない。でも、一つのことに集中し続ければ、やがて大きな成果として表れる」
原爆の犠牲になった姉千鶴子を原点として始めた平和活動。それは被爆者の先頭に立ち反戦反核を訴え、脚光を浴びるようなものでなかった。妻文子の静かな理解の下、被爆者を訪ね歩いて証言を集め、一時は語り部活動をしたこともあった。荒木正人らとともに地道な作業で被爆前の町並みの地図を復元。そして原爆写真に行き着いた。
1979年に発足した「長崎の被爆写真調査会」の当初のメンバー6人のうち、5人は既に亡くなり、現在の「写真資料調査部会」で残っているのは深堀だけ。「6人で『死ぬまでやろう』とは話していたけれど、まさか自分だけがこれほど長く続くと思わなかった。でもね、『自然現象』なんですよ。少しずつ写真が集まるので、途中で離れられなくなってね。結果的にのめり込んでいった」。手探りで一枚ずつ調べ上げた過程が知識や経験となって蓄積され、今は新しく見つかった写真を手早く解明できるという。
調査部会は現在9人。その中心にいる深堀は38年の活動で確立した”財産”を次世代に引き継ごうと考えている。最も若い部会員は29歳。深堀の体調はここ1年優れないが、毎週月曜午後の部会への出席は欠かさない。
被爆の実相を伝える数ある手法の中から、なぜ写真を選び取ったのか深堀に聞いてみた。
「写真は強い訴求力を持っている。言葉を超える力があると感じるんですよ」。淡々と話す口調にも長年の経験に裏付けられた確信のような力強さがあった。
8月9日、長崎原爆の日。深堀は写真に注ぎ込んできた思いを「誓い」に昇華させ、平和祈念像の前に立つ。