時間超え 実相近づく
日米の調査団が被爆から2カ月後に撮った長崎の写真の多くを、深堀好敏(88)は「復興写真」と捉えている。本当の意味での「原爆写真」は「山端写真だけ」だという。
旧陸軍カメラマンだった山端庸介は、原爆投下翌日の1945年8月10日未明の3時に長崎に入った。約14時間を掛けて120枚以上撮影したという。焼死体が点々と転がる廃虚のまち、爆風で吹き飛ばされた電車、炎天下で救援を待つ負傷者-。凄惨(せいさん)な情景をくっきりと残すこれらの写真を、深堀は「長崎の宝」と表現する。
深堀は2015年6月、広島、長崎両市が米ワシントンのアメリカン大で開いた「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」で、長崎原爆の写真を解説。スクリーンには山端写真を映し出した。「身を乗り出してじっと見つめたり、むごさに目線をそらしたり、涙ぐんだり。壇上で話していると米国人の反応がよく分かった」
解説を終えると、同行していた広島市の職員がぼそりと言った。「『長崎はいいですよね。山端写真があるから』って。広島には被爆直後の写真があまり残っていないからだろうね」
山端写真の中でも「象徴的」だと語るのが「黒焦げの少年」だ。「普通、人が死んだら白い骨になる。一瞬のうちに黒焦げで死ぬなんて、写真を見ないと一般の人は想像ができないですよ」
忘れられないエピソードがある。15年7月、長崎市立図書館で開いた写真展に高齢の姉妹2人が訪れた。「黒焦げの少年」を見て「兄に間違いない」と名乗り出た。確かに、生前の写真と目元あたりがそっくりだった。「写真がほしい」と言うので、深堀は写真を保管する山端庸介の長男に宛てて、2人に手紙を書かせた。後日、写真が送られてきて2人は満足そうだった。
だが深堀はそれでは終わらなかった。「歴史的に価値がある写真。『黒焦げの少年』が本当に2人の兄なのか科学的に立証する必要があると思った」。「そこまでしなくても」と言う周囲の声にも耳を貸さず、識者を探し出し自腹で鑑定を依頼。16年春、2人の兄である可能性が高いとの結果が出た。71年という時間を超え、被爆の実相に一歩近づいた。写真調査の醍醐味(だいごみ)だった。
深堀はあと2年で90歳になる。体力の衰えを感じており、いつまで今の活動ができるか分からない。山端が生誕100年を迎える今年8月、一つの区切りとして山端の写真展を開催する。=敬称略=