住民の記憶 写真解明
深堀好敏は1970年から74年まで、被爆前の町並みを地図で復元する長崎市の事業に携わった。米軍が原爆投下前に撮影した航空写真を基に真っさらな紙の上に地図を描き、家屋の元住民を一軒一軒特定。生き残った元住民に手紙を送り、近隣宅の情報を集めるという根気のいる作業だった。そこで出会ったのが旧長崎国際文化会館(長崎原爆資料館の前身)で働いていた荒木正人だ。
荒木は「長崎原爆戦災誌」の編さんにも中心となって取り組み、深堀もその中で山里町と上野町の被災記録を担当。荒木は常日ごろ「被爆当時の写真がない」と嘆いており、深堀も語り部時代の経験から言葉より写真の方が被爆の実相を伝えられると感じていた。戦災誌が完成した79年、荒木の呼び掛けで「長崎の被爆写真調査会」が発足。有志6人で写真の収集・調査を始めた。
発足後間もなく仕事が舞い込んできた。原爆関連の資料を集めていた東京の平和団体から、米国戦略爆撃調査団が45年10月ごろに長崎で撮影した約300枚の写真の検証を依頼された。「初めて見た時は『何だこれは』と驚いた。みんな興味津々になってね」
深堀は町並みの復元や戦災誌の編さんで、市内の地理に深い知識があった。それでも、断片的に切り取られた町の写真は、撮影地点や角度によって見え方が異なるため「場所がどこなのか特定できず苦労した」という。検証には当時の町を知る住民の記憶が必要だった。
80年8月、情報収集のため長崎市民会館で写真展を開催。「当時は写真の価値が分からなくて。壁に両面テープで原版を貼って展示していた」。ずらりと並ぶ写真の横にアンケート用紙を置き、来場者に知っている情報を書き留めてもらった。地図との照合や現地調査も重ね、一枚一枚を丁寧に解明していった。
深堀たちの写真調査会は徐々に認知度を高め、83年、官民一体で活動する「長崎平和推進協会」が発足した際、下部組織となった。同時に、現在の「写真資料調査部会」へ改称した。
これまでに収集・調査した写真は4千枚にのぼる。そのほとんどは米国戦略爆撃調査団や日本の学術調査団が45年10月ごろに撮影したもの。最初に見た時こそ驚いたが、道を埋めたがれきや積み重なった死体は既に片付けられ、被爆直後の「むごさ」は感じ取れない。
だからこそ旧陸軍カメラマンの山端庸介が原爆投下翌日に撮影した写真は貴重だった。
=敬称略=