表の秋月、裏の深堀
「腐れ縁って言うんですか。ずっと一緒にいたから特別な結び付きみたいなものがあったんです」。1953年4月、深堀好敏=当時(24)=が聖フランシスコ病院で働き始めて半年が過ぎたころ、同病院前身の浦上第一病院で被爆した医師、秋月辰一郎が赴任してきた。のちに長崎の反核・平和運動のリーダーになる人物だ。
「職場は外国人シスターと女性の医師や看護師ばかりで男性は少なかった。つらい原爆の体験を共有できる人が私くらいしかいなかったんでしょう」。昼食の後は決まって病院の庭にあるベンチで語り合った。秋月は諫早の自宅からの単身赴任だったが、平日は深堀とともに院内にあった宿直部屋に寝泊まりした。2人の部屋は薄板一枚で仕切っていただけなので、夜も寝ながら話ができた。
54年11月、深堀は結婚。病院のすぐ近くにあった二軒長屋に引っ越した。秋月は週末になると自宅に戻っていたが、大変そうに見えた。ちょうど隣の部屋が空いていたから、秋月に家族と住むよう勧めた。すぐに隣同士の生活が再開した。
家には水もガスもない時代。夜は外科医が住んでいた社宅の風呂に、一緒に入りに行った。深堀と秋月の娘たちは年齢が近かったこともあり、まさに「家族ぐるみ」の付き合いだった。秋月は深堀の13歳上。それでも「思ったことを何でも言い合う仲」だった。のちに秋月が平和運動を始める時は、深堀が相談に乗ることも多かった。
「表と裏」。深堀は平和運動に取り組んだ2人の関係をこう表現する。秋月は66年に「長崎原爆記」を発刊して以来、長崎の平和運動の象徴のような存在になった。マスコミも群がり表舞台に出る回数が増えた。「当時は平和運動をするとすぐ左翼と言われ、反戦反米の思想だと思われた時代。カトリックの病院で外国人も働いていたから、秋月先生ほど有名になると仕方ないが、私まで表立って活動をするのはまずかった」
深堀は69年、秋月が代表委員を務める「長崎の証言の会」に入り、地道に語り部の活動に取り組んだ。修学旅行で長崎を訪れた高校生に被爆体験を話していたが、当時の惨状を言葉で表現する難しさを感じていた。「原爆が落ちて、ああなった、こうなった、と言っても想像できないのか、私はつらい体験を語っているのに、話の半分も伝わってないのが目に見えて分かるんですよ」
=敬称略=