妻が理解、活動に没頭
1952年10月、深堀好敏は、原爆で全壊した浦上第一病院の焼け跡に建てられた聖フランシスコ病院で、事務職員として働き始めた。当時23歳。そこで出会ったのが同じ年の看護婦、瀬下文子だった。
文子は地元大村の国立大村病院高等看護学院1期生。病院では患者の尿や血液の検査を任されていた。検査室は深堀のいる事務所の隣。「真面目でおとなしい性格。私は昔から人と接するのが好きだったからよく声を掛けていた」。会話の回数が増えるに連れて仲は深まっていった。54年11月、2人は結婚。病院に近かったこともあり、原爆で破壊された浦上天主堂横の仮聖堂で式を挙げた。
「妻はとにかく仕事好きで、遊びに出ることはほとんどなかった。普段から化粧もせずに過ごしていて、清貧だった」。結婚記念に買った鏡台の引き出しの中は口紅も頰紅もなくからっぽ。着物や外行きの服を買おうと提案しても断られた。「それでも結構、べっぴんさんだったよ」。深堀は照れくさそうに笑う。
結婚した翌年の55年に長女葉子が誕生。57年に次女康子が生まれて間もなく、深堀は「草の根」の平和活動を始めた。病院で知り合った被爆者たちの自宅を訪れ、家から抱えてきた録音機「デンスケ」で被爆証言を収集。姉のように原爆の犠牲になった人のために「何かをしなくてはいけない」との思いからだった。
被爆者は喜んで迎え入れてくれた。悲惨な体験を語り合う時間なのに、生来の話し好きの深堀にとっても「何となく楽しく思えた」。月曜から金曜までは病院勤務。土曜も午前中の仕事を終えると被爆者の取材に出掛けていたため、家を空ける時間が多かった。
一方、文子は次女を出産後にリウマチを患い、入退院を繰り返していた。それでも「少しでも体調が戻ると病院で働いていた。何か使命感みたいなものを持っていたんだと思う」。若い看護婦を休ませるため日曜に出勤する姿が印象に残っている。
だが文子の病は年を重ねるごとに悪化し、89年に息を引き取った。59歳だった。このころ深堀は原爆の写真収集・調査にのめり込んでいた。「妻は新婚旅行にも連れて行っていないのに、『どこかに行きましょう』なんて一言も口にしなかった。私の活動を理解してくれていたんだろうけど、何も楽しい思いをさせてあげられなかったんですよ」。今でも心残りだという。=敬称略=