姉の最期 看取れず
9人きょうだいの次女だった姉千鶴子は、自営の八百屋で忙しい母ヨシノに代わってきょうだいの面倒を見ていた。「とにかく面倒見がよくてね。当時、長女と兄2人は家を出ていたから母親のように下のきょうだいをしつけていた。よく声を掛けてくれてたんですよ」。姉は深堀好敏(88)にとって誰にも代え難い存在だった。
1945年8月10日、本河内町の防空壕(ごう)で一夜を明かした深堀=当時(16)=と同僚はいったん矢の平町の県疎開事務所に戻った。2人は上司に今から帰宅することを報告。通行止めと聞いていた路面電車の軌道沿いの道は通れることが分かり、長崎駅方面へと歩き出した。
廃虚と化した長崎駅付近を通り過ぎ、駅舎の消えた浦上駅から一の鳥居、二の鳥居を抜けて山王神社に着くと、目印にしていた社殿は消えていた。神社近くの姉がいる親戚の家にたどり着いたのは午前9時ごろ。付近は猛烈な熱線で焼き尽くされていたが、谷間になっていた親戚宅一帯は延焼を免れ、家屋が倒壊するにとどまっていた。「そこだけぽつんと燃えていなくてね。もしかして姉が助かっているんじゃないかと思った」
間もなく深堀は、がれきの上で横に倒れ込んでいた姉の姿を見つけた。慌てて駆け寄ると、右のこめかみに打撲でできたような血痕があり、爆風で押しつぶされた家の梁(はり)1本を抱きかかえるようにして亡くなっていた。一緒に来てくれた同僚と2人で土壁と材木に埋もれた下半身を引っ張りあげると、その後ろに小さな穴が細く続いていた。「それが何時間もかけて埋もれた所から這(は)い上がってきた跡に見えた」
「大量の放射線を浴びているから結果的には助かっていなかったと思う。ただ前の日に金比羅山を越えてたどり着いていれば声を掛けて最期を看取(みと)ることはできたはず」。深堀は今も悔やまれてならないという。
動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場(爆心地から1・3キロ)で被爆した弟輝雄は奇跡的に助かり、家族の疎開先で再会できた。「姉も家族と一緒に疎開していれば何事もなく生きていた。私と弟のために犠牲になったような感じがしてね」
「時々、夢の中に姉が出てきて言うんですよ。『原爆を伝えなくてはならない』って」。あの日から72年。深堀は生前の姉の写真をじっと見つめてつぶやく。「この人が私の活動の原点だから」