言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 1

きょうだいと撮った写真。後列右端が深堀さん、後列左端が千鶴子さん、その右隣が輝雄さん=1943年ごろ撮影(深堀さん提供)

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言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 1 姉よ弟よ無事でいて

2017/07/20 掲載

言葉を超える力 原爆写真 深堀好敏の軌跡 1

きょうだいと撮った写真。後列右端が深堀さん、後列左端が千鶴子さん、その右隣が輝雄さん=1943年ごろ撮影(深堀さん提供)

姉よ弟よ無事でいて

 1945年8月10日朝。深堀好敏=当時(16)=は、動員先の長崎市矢の平町の県疎開事務所から、路面電車の軌道沿いに北へと急いでいた。親戚宅にいた2歳上の姉千鶴子と、三菱長崎兵器製作所大橋工場に動員されていた2歳下の弟輝雄のことで頭がいっぱいだった。

「無事でいてくれ」

 だが、長崎駅までたどり着くと、目の前には絶望的な光景が広がった。1日前、出勤途中に電車から眺めたまちは廃虚と化し、あちこちで白い煙が立ちのぼっていた。

 6日前の4日、両親は空襲を避けるため、妹3人と祖母を連れて山里町の自宅から、田園風景の広がる川平へと疎開。だが、深堀と弟は動員されていたため遠くへ離れられなかった。「そうしたら『私が弟たちの面倒を見る』って言い出してね」。しっかり者の姉は両親の反対を押し切って、そばにいてくれた。3人は坂本町の山王神社近くの親戚宅に身を寄せた。

 9日朝、姉はいつものように「いってらっしゃい」と玄関先で見送ってくれた。深堀は普段通り電車に乗って事務所へ向かった。

 深堀の仕事は、空襲で燃えた家屋から官庁舎や軍事工場に延焼しないよう、事前に取り壊すことになった家の測量。普段なら日中は外に出て家々を回るが、この日は偶然にも事務所で測量の計算をしていた。11時2分。強烈な閃光(せんこう)と、爆風に襲われ、瞬時に机の下に潜り込んだ。爆心地から3・6キロ。経験のないまぶしい光に「いよいよ事務所がやられた」と思ったが、爆風で天井から落ちてきた屋根瓦が腰に当たる程度で、無事だった。

 夕方、帰宅命令が出た。路面電車の軌道沿いの道は通行止めだと聞かされていたため、同僚と2人で金比羅山を越えることにした。芋畑にはさまれた一本道を進むと、顔面が黒くすすけた人々がぞろぞろと行列をなして歩いてくる。皮膚がどろどろにただれた者、地面を這(は)いながら水をせがむ者。中腹当たりで、下山してきた男性に行き先を尋ねられ、山を越えると伝えた。「ばかもん。行ってはいけない」。強い口調で放たれた言葉に身の危険を感じた。来た道を引き返し、その日は本河内町の防空壕(ごう)で朝を待った。この時の判断を深堀は一生悔やむことになる。

 長崎原爆の写真調査の第一人者として知られる深堀好敏(88)が8月9日の平和祈念式典で、被爆者代表として「平和への誓い」を述べる。38年にわたり写真を通して被爆の実相を伝えてきた根底には何があるのか。深堀の人生をたどった。

=敬称略=