名なき いしぶみ 被爆無縁仏をめぐって 下

移設された慰霊碑に手を合わせる元村一喜楽会関係者。碑には「原爆」という言葉はひと言も刻まれていない=時津町元村郷

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名なき いしぶみ 被爆無縁仏をめぐって 下 移設 ひと言もない「原爆」 思い 受け継がれるか

2017/03/09 掲載

名なき いしぶみ 被爆無縁仏をめぐって 下

移設された慰霊碑に手を合わせる元村一喜楽会関係者。碑には「原爆」という言葉はひと言も刻まれていない=時津町元村郷

移設 ひと言もない「原爆」 思い 受け継がれるか

 2016年8月5日。元村一喜楽会(もとむらいちきらくかい)は、雑草を刈り取って清掃した慰霊碑の前で、被爆無縁仏の慰霊祭を営んだ。「今まで荒れ放題のままで申し訳なかった。安らかにお眠りください」。約20人が手を合わせた。

 その一人、濱岡英明さん(83)は、爆心地に近い長崎市竹の久保町の出身。疎開していて難を逃れたが、他の家族全員を原爆で失った。「時津で身内にみとられず亡くなった被爆者と、遺体も見つからなかった自分の兄弟の姿が重なる」という。

 被爆者が伝染病死者や牛馬と同じ場所に葬られたという事実は、現代の感覚では衝撃的だ。しかし原爆直後の混乱を知る濱岡さんは「そうせざるを得ない状況だったのだろう」と理解を示す。突然生じた多数の亡きがらを土葬する適地は、簡単には見つからないからだ。

 むしろ同会関係者がこだわるのは、慰霊碑が長年放置されていたことだ。慰霊碑のある町有地は、文化の森公園の遊歩道から数十メートル入ったところにあり、途中民有地の畑を通らなければならない。それが碑の周辺を荒廃させた原因だと考えた同会は、参拝用の道を敷設してほしいと昨年時津町に要望した。

 町はそれに応え、参拝の便宜を図るため、今年1月末、碑を数十メートル離れた遊歩道のそばに移設した。「これで慰霊碑が荒廃することはないだろう」。同会関係者はひとまずほっとする。

 ただ、碑文には、この碑が疱瘡(ほうそう)墓に由来することも、原爆犠牲者の埋葬との関わりも、直接的には記されていない。表には「倶會一處(くえいっしょ)」という仏教の言葉が刻まれているだけだ。このため、事情を知らない人がこの碑を見て、原爆について考えることは難しい。町は「時津で亡くなった被爆者は、町中心部の公園にある慰霊碑に集合的にまつっている」という立場だ。

 今年は被爆72年目。土地に刻まれた原爆の記憶は、歳月の経過だけでなく、公共工事による土地の形状変化や住民の入れ替わりによっても断絶する。今回、時津で最期を迎えた被爆者が疱瘡墓に葬られた事実が再確認されたのは、時津に移入した住民の側に、原爆で亡くなった人々を忘れてはならないという強い思いがあったからだ。その思いは次の世代に受け継がれるのか。今のところ、碑は原爆について何も語ることなく、遊歩道のそばにたたずんでいるだけだ。

【編注】濱岡英明さんの濱は、サンズイにウカンムリにマユ毛のマユの目が貝