時津・疱瘡墓の行方 人が寄り付かぬ場所 建立の慰霊碑 雑草に覆われ
「長崎原爆戦災誌」によると、当時の時津村では、時津国民学校と萬行寺が被爆者の主な救護所となった。2カ所で合計879人が収容され、107人が死亡。84人が土葬されたという。土葬場所の一つが、元村郷の疱瘡(ほうそう)墓だ。
原爆投下前、疱瘡墓は人が近寄らない場所だった。子どもの頃から近くに住む田栗和子さん(85)は「あそこには行くなと大人に言われていた」と振り返る。「行くと病気が伝染すると思われていたのかもしれない。一度だけ行ったことがあるが、古い年号が刻まれた石塔がいくつかあった」。また、野田郷の中野護さん(71)は、1926年生まれの兄の話として、「疱瘡墓は戦前、死んだ馬や牛を埋める場所になっていた」と伝える。
救護所で亡くなった被爆者は、そんな場所へ次々と運び込まれ、埋葬された。田栗さんのおじもその作業に当たった。「おじは毎日、遺体を戸板に乗せて疱瘡墓に運んでいた。埋葬場所には名前を書いた目印を立てたと聞いた」
埋葬された遺体はその後どうなったのか。長崎原爆戦災誌によると、時津町など近隣町村に埋葬された引き取り手のない遺体は55年に発掘され、長崎市へ改葬された。田栗さんは「戦後のある時、疱瘡墓には原爆の死者はもう入っていないと聞かされた」という。
疱瘡墓のあった丘は、80年に始まった長崎漁港臨港道路の建設工事で切り崩された。町はこの時、古い石塔や出土した骨を近くの町有地へ移し、現在の慰霊碑を建てたようだ。慰霊碑には「昭和五十九(84)年九月時津町建立」と刻まれている。
慰霊碑を建てた場所はやがて雑草が茂っていった。94年、町が文化の森公園を整備した際、隣接する現地を整地して石塔を1カ所にまとめ、慰霊碑に台座を付けた。この時、石塔に紛れて複数の骨が見つかり、台座の中に納めた。当時担当職員だった吉岡勝彦さん(63)は「馬や牛のような骨だった。石塔も何の石かよく分からなかった。原爆に関係があるという認識はなかった」と振り返る。
整地されたはずの町有地は、その後誰も顧みる者なく、再び雑草に覆われていった。この場所が注目されたのは、元村一喜楽会(もとむらいちきらくかい)が慰霊に立ち上がった約20年後。役員らは「もしここに被爆者の遺骨が残っていなくても、放ってはおけなかった」という。