時津・元村一喜楽会 伝染病死者の墓に埋葬 20年前の証言集で知る
長崎原爆当時、多数の負傷者が爆心地から約6キロ北にある時津にたどりついて命を落とした。その中には江戸時代に伝染病死者を葬った「疱瘡(ほうそう)墓」に埋葬された人々も少なくない。疱瘡墓に由来する無縁仏の慰霊碑は、長い間荒れ果てていたが、昨年、西彼時津町のある老人クラブが慰霊祭を営み、存在に光を当てた。「満足にみとられず亡くなった被爆者のことを忘れてはいけない」-。そんな会員の思いと、疱瘡墓に埋葬された被爆者の慰霊をめぐる経緯を報告する。
長崎漁港臨港道路沿いの高台にある時津町の町有地。当時訪れる者はなく、一面雑草に覆われていた。
「あのやぶの中に慰霊碑がある。あそこには時津で亡くなった被爆者の無縁仏がまつられていると聞く。丁寧に供養してやるべきではないか」
2015年、時津町元村郷の老人クラブ、元村一喜楽会(もとむらいちきらくかい)(松本文男会長)の役員の間で、そんな声が上がった。「臨港道路の建設で丘を切り崩した時、現場で被爆者の遺骨が出土した。それをあの慰霊碑でまつった」-。供養すると言いながら、役員らの認識は漠然としていた。
臨港道路の建設は1980~88年。時津が長崎市のベッドタウンとして発展した頃だ。役員らはその前後に時津へ移り住んできた。
しかしあらためて振り返ると、臨港道路建設前にそこに何があり、被爆者とどう関係するのか、詳しい事情は役員の誰も知らなかった。定年退職するまで、地域に関心を持っていなかったからだ。役員らは地元生まれの会員を訪ね、原爆時の話を聞こうとした。しかしみな高齢で十分な証言を得られなかった。
そんな折だった。メンバーの一人が、被爆50周年時に町が発行した原爆証言集の中に重要なくだりを見つけた。漠然とした認識が確信に変わった。
証言集は、運ばれた被爆者の救護に当たったりした町民72人分の体験などをつづっている。その中に、身元不明の死者を「元村郷の疱瘡墓」に運んで埋葬したという複数の証言があった。この証言と、臨港道路建設現場で遺骨が出土したという話がつながった。かつてそこにあったのは疱瘡墓。伝染病死者が埋葬されている。そこに手当のかいなく時津で命を落とした被爆者が葬られたのだ。
「証言集の中には、遺体埋葬の際、ぶよぶよに腫れた手首が滑って遺体が落ち、その皮膚だけが自分の手元に残ったという話があり、ぞっとした。しかも葬られた場所が疱瘡墓とは。そんなふうに粗末に埋葬された被爆者が気の毒だ」と日置征弘(ゆきひろ)さん(74)。そんな思いが役員らを自らの手による慰霊へ突き動かした。
2016年夏、会員らは慰霊碑の周辺を草刈りし、きれいに清掃した。この際、そばに疱瘡墓の墓石らしい石塔約30基が放置されているのも見つけた。1984年建立の慰霊碑の側面には「この塚は戦死病死せられた数知れぬ方々の骸(むくろ)を埋葬したる場所で…」と刻まれていた。「戦死病死」という表現が、伝染病死者と原爆の死者を区別せずまつったことをうかがわせた。
【編注】塚は、ノ二本に「、」を重ねる