長崎 原爆「正当化」に憤り
「原爆はわれわれ被爆者を焼き殺したんだ。毎日たくさんの被爆者が今も殺され続けている」。テレビクルーが献花台につまづいて地面に落ちた花輪を、当時の長崎原爆被災者協議会会長、山口仙二(2013年に82歳で死去)は踏み付けて叫んだ。晩年の本紙取材に「多くの人が熱線で焼き殺された場所に核疑惑艦の艦長が軍服姿で献花に来るとは。怒りが収まらなかった」と答えている。
山口は14歳の時、爆心地から1・1キロにある三菱重工長崎兵器製作所大橋工場で被爆。顔や上半身に大やけどを負い、病院で「全身を切り付けられるような」痛みに耐えながら手当てを受けた。退院しても、就職試験では傷や体調のことばかりを尋ねられ不合格の連続。自殺を図ったこともあった。
失意のどん底から立ち上がらせたのは原水爆禁止運動だった。1954年、米国の水爆実験で日本のマグロ漁船が被ばくした「第五福竜丸事件」を契機に、運動が急速に広がった。山口も実家のまんじゅう屋を訪れた被爆者に誘われ、長野県の原水爆反対集会に参加。被爆の記憶を大勢の前で初めて語った。会場からはすすり泣く声も聞こえ、関心の高さに圧倒された。「(被爆体験は)多くの人々と共有しなければならないということを私たちに教えてくれた」(自叙伝「115500m2の皮膚」)
被爆者運動にのめり込み、60年代以降、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の派遣団として海外で遊説するようになった。「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」。82年に米ニューヨークの国連本部で行った迫力ある演説は、被爆者の核への怒りを印象づけた。同行した元長崎大教授の高橋眞司(74)は「仙二さんは感受性豊かで傷つきやすかったからこそ、原爆投下は許せないという強靱(きょうじん)な意志を持っていた」と語る。
しかし、核廃絶への道は遅々として進まなかった。山口は2000年の本紙取材に「米国は半世紀を過ぎても原爆投下について反省も謝罪もしないどころか、依然として“原爆で多くの命を救った”などと正当化し続けている。それが、ますます核軍拡を進める政策につながっている」と憤った。
その9年後、米大統領バラク・オバマがチェコ・プラハで「核なき世界を目指す」と表明した。「勇気ある言葉。大変ありがたい」。それまでの山口にしては珍しく好意的な発言だった。=文中敬称略=