被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 2

「米国は沖縄を軽んじている」と話す比嘉幸子さん=那覇市内の病院

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被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 2 沖縄 母から継いだ「怒り」

2016/07/31 掲載

被爆71年ナガサキ 71年目の被爆者 アメリカへの視線 2

「米国は沖縄を軽んじている」と話す比嘉幸子さん=那覇市内の病院

沖縄 母から継いだ「怒り」

 「本来なら沖縄に来て謝るべきではないの」。沖縄県原爆被爆者協議会副理事長の比嘉幸子(84)は那覇市の病室で憤っていた。

 今年5月25日夜、主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)と被爆地広島訪問のため来日した米大統領バラク・オバマと、首相の安倍晋三は、当初予定を1日前倒しして会談。沖縄で起きた米軍属による死体遺棄事件の捜査にオバマは全面協力すると約束した。歴史的な被爆地訪問を控え、これ以上波風は立てられない-。両者のそんな思惑がにじんでいた。

 比嘉は今年2月に脳卒中で倒れて入院。車いすでリハビリを続けているが、米国を追及する言葉は今も厳しい。オバマの広島演説も「多くの犠牲者が出た沖縄戦に全く触れなかった。やっぱり島民を蔑視している」。米国に抱く不信と怒り。それは、亡き母、丸茂(まるも)つるの影響が大きい。

 比嘉は13歳の時に疎開先の広島で被爆した。体調不良で爆心地そばの学校を休んだため無事だった。しかし、母は爆心地近くの会社で全身をやけどし、生死をさまよった。比嘉が、血のにじむ母の包帯を取り換えて懸命に看病し、一命を取り留めた。

 戦後、比嘉は母と兄の3人で沖縄へ戻り、石川市(現うるま市)で暮らした。顔にケロイドが残る母は人目を嫌い外出を拒んでいたが、ある日を境に変わった。

 1959年6月30日。自宅前の宮森小学校に米軍のジェット機が突っ込んだ。周りは火の海となり、児童11人を含む17人が死亡。パイロットは脱出して無事だった。事故を目撃した母は、沖縄に軍事拠点を置き続ける米国と、それを求める日本政府に怒りをぶつけるようになった。米統治下にあるがゆえに旧原爆医療法に基づく援護を受けられない沖縄の不条理を訴え、被爆者運動をけん引した。

 一方、比嘉は米軍基地で働いた。母の気持ちは理解できたが「生きるため」と割り切った。相反する立場にいた母と娘。その間には、無言の葛藤があった。

 比嘉は93年、沖縄被爆協の推薦で広島市の平和記念式典に参列し、戦後初めて母校を訪れた。大半の同級生が原爆の犠牲となり、自分が偶然助かったことに後ろめたさがあった。だが慰霊碑に刻まれた友人の名前をたどるうち、何かをしなければならないとの思いに突き動かされた。

 原爆や母の生きざまを人前で証言するようになった。罪のない人々の命を奪った戦争への怒りが湧いた。気が付けば母の後ろ姿を追っていた。

 母は2000年に93歳で亡くなった。比嘉も自由に体は動かない。それでも原爆と沖縄を語り続けようと思う。それが母から受け継いだ「使命」だから。=文中敬称略=