英単語帳 メモ帳 勉強熱心 弟の無念
小さな単語帳にびっしりと書き込まれているのは習ったばかりの英単語。深堀讓治(85)=長崎市橋口町=の2歳下の弟で、旧制県立長崎中1年だった耕治が被爆当時に持ち歩いていたものだ。
耕治のあだ名は九州の豪族名にちなんだ「熊襲(くまそ)」。讓治が友人とけんかをしているときに耕治が姿を現すと、相手が逃げ出すほどの腕っ節だった。
その一面、勉強熱心でいつも集中して机に向かっていた。伝統校の長崎中で同級生には負けたくないと思っていたのだろう。いつも英単語帳を持ち歩いていたのも、その表れだったのかもしれない。
8月9日。長崎中3年の讓治は、校内にあった三菱長崎造船所の疎開工場で働いていた。突然、周囲がピンク色に光り、爆風で窓ガラスが飛び散ったが、旋盤の隙間に伏せて軽傷だった。
翌朝、爆心地から約600メートルの橋口町の自宅に戻ると、敷地の隅で母サカヱが青黒くなって息絶えていた。一緒に暮らしていた3人のきょうだいの姿が見えない。捜し回ると、山里国民学校そばの坂を耕治がふらふらと歩いていた。耕治はもう1人の弟暁郎(あきお)、妹の待子と岩屋橋の店でお使い中に被爆。暁郎と待子は亡くなったという。
讓治と耕治は魚の町にあった叔母の家に身を寄せた。だが耕治の食が次第に細くなった。讓治が薬をもらいに内科医を訪れると「そうやってみんな死んでいる」と告げられた。耕治は日に日に弱った。熱はないのに「暑い、暑い」と訴えた。讓治は水にぬらしたシーツを掛けてあげ、ずっとそばにいた。「どうか助かってほしい」。それだけを願い続けた。だが17日の正午前。「兄ちゃんは死ぬなよ」。意識が遠のいているはずの耕治ははっきりとした口調で言い、息を引き取った。
英単語帳、メモ帳、軍人勅諭集、定期券。枕元に置いていた耕治の遺品を手に取った。メモ帳には軍の幼年学校の試験日程や要領が書かれていた。家族での夕食時に「幼年学校を受ける」と打ち明けた耕治。母と一緒に応援した。「やりたいことをできずに死ぬなんてかわいそうだ」。弟の無念を思い、悔しくて仕方がなかった。
戦後、讓治は耕治の形見を大切に守った。家族を失った寂しさに襲われた時、取り出せば思い出に慰められた。だが被爆70年がすぎ、未来につなげるため長崎原爆資料館に寄贈しようと考えている。「遺品だけで全てが伝わるわけではないが、理不尽に犠牲になった人がいたことを知ってもらうことはできる。頑張って生きた弟の姿を多くの人に感じてほしい」=文中敬称略=