同級生の手紙(下) 父から返信 胸騒ぎ
1945年9月。県立長崎高等女学校4年で15歳だった柳原英子(86)=西彼長与町丸田郷=は、長崎市茂里町で一緒に被爆した同級生、宮津弘子から手紙をもらい、すぐに返事を書こうとした。
だが、体調が思わしくなく、比較的調子がいいときに少しずつ、布団に伏したまま返事を書いた。防空壕(ごう)で弘子と別れてからの経緯、現在の自分の体調…。書き終えるまでに約1週間がかかった。
10月下旬。英子のもとに再び手紙が届いた。送り主は弘子の父福三郎。封筒を手にしたとき、胸騒ぎがした。恐る恐る手紙を読み出し、息をのんだ。
「折角(せっかく)御眞心をこめられた御手紙も今は御仏だんに安置した弘子の霊に供へる外(ほか)は無く又々涙を新たに致しました」
弘子は最初の手紙を出した直後に何らかの病気を発症し、その後、中耳炎も患って、手術のかいなく9月23日に死去したことがつづられていた。
「なぜ。なぜあなたなの」。手紙を持つ手が震えた。弘子の最初の手紙には「死」をうかがわせる記述はどこにもなかった。
「本人も大丈夫助かるものと思ひ登校の日を、皆々様に御目に掛かれる時を楽(しみ)にして居(い)ました。(略)我子(わがこ)を喪(うしな)ふより以上の悲しみ苦しみはありません。頭は乱れ、手は振(る)へて之(これ)以上書く元気はありません」
父からの手紙はそう続いていた。いつも笑顔だった弘子の姿が何度も頭をよぎった。涙が止まらなかった。もっと早く返事を出すべきだったと悔やんだ。
英子は45年12月に復学した。学校に弘子の姿はなく、胸が痛んだ。翌46年3月に卒業。50年ごろに上京し、親戚のつてで、外国の大使館などに住み込みの女中として勤務。40代で帰郷し、定年直前まで保険のセールスレディーとして働いた。
2通の手紙は金庫に入れ、ずっと大切にしてきた。落ち込んだとき、悩んだとき、うれしいときに取り出し、何度も読み返している。確かに、弘子と会話を交わすことはできない。
2人で約束した映画を見ることも、一緒に写真を撮ることもかなわなかった。親友の人生を奪った原爆をずっと憎んでいる。
でもね、と英子は言う。「手紙を読むと、弘子さんが励ましてくれたり、時には戒めてくれたり。あの時みたいに、2人でおしゃべりをしているような気分になるんです」=文中敬称略=