かんざし 恋しかった母と“再会”
モノクロ写真の中で、1人の花嫁が畑に敷いたござの上にたたずんでいる。頭の角隠しからのぞく小さなべっ甲のかんざし。髪結い師だった母の元から、戦後、娘に”渡った”ものだ。
花嫁は長崎市西山1丁目に暮らす牟田満子(80)。母キクエは「寝ている姿を見たことがないほど働き者だった」。戦中、脊椎の病気で寝たきりだった父の介護をしながら、祖父母と畑仕事をしたり着物の内職をしたりして、家族8人の生活を支えた。
忙しい日々の中、最も生き生きとしていたのが、今の西山本町にあった自宅で近所の人たちの髪を結う時。ハイカラな女性にはカールを加えた日本髪を、若い女性には桃の実のような、まげがかわいらしい「桃割れ」を。白いエプロンを着て、鏡越しに楽しげに会話する姿は輝いていた。
1945年8月9日、上長崎国民学校4年の満子は、自宅そばの公民館で補習を受けていた。原爆投下。飛んできたガラス片で切った額を手当てしてもらい自宅に戻ると、母と、4人姉妹の四女、1歳の洋子の姿がなかった。
朝から父の薬を取りに長崎医科大付属病院へ出掛けたという。祖父母らが懸命に捜したが消息はつかめず、親子が倒れていたらしい病院の玄関前の灰と土を持ち帰ることしかできなかった。
母は幼いころ実の母を亡くし継母に育てられた。家事を押し付けられ十分に勉強できなかったからか、その分教育熱心で「勉強しなさい」と口うるさかった。でも満子のためうれしそうに着物を縫ってくれたこともあった。戦後、町で親子連れを見ると寂しさが込み上げた。夢に出てきてもいつも後ろ姿。「どこにおっと」と叫んでも決して振り向いてくれなかった。
満子は16歳で結婚。嫁ぐ前に家の片付けをしていると、母の仕事部屋で小さな木箱を見つけた。「何だろう」。そっと開けると中には黄金色のかんざしやツゲのくしが入っていた。「母ちゃんのかんざしだ」。母が髪結いをするとき使っていたものだった。一本一本手に取り眺めていると、母の姿が鮮明によみがえってきた。恋しかった母にようやく会えた気がした。
35歳で亡くなった母の倍以上生きて苦労も多かったが、今は妹2人と旅行をする楽しみもできた。「母にも自由に楽しめる人生を送ってほしかった」と満子。「人は戦争で苦しい思いをするためではなく、幸せになるために生まれてくるはずでしょう」。毎年8月になると、かんざしに風を通しながら、そんなことを考えている。=文中敬称略=
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長崎に投下された1発の原子爆弾は、多くの人々から「大切な人」を奪い去った。時は心の痛みを和らげてくれるが、残された遺品は今も生者に平和の意味を問い掛ける。被爆71年。本紙の連載は「形見」を巡る5編の物語から始めたい。