被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 8(完)

長期連載を総括する記者=長崎新聞社

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被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 8(完) 記者座談会 報道の落とし穴 今も

2016/03/31 掲載

被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 8(完)

長期連載を総括する記者=長崎新聞社

記者座談会 報道の落とし穴 今も

連載企画「原爆をどう伝えたか」は全6部を掲載した。最終回に当たり、担当した長崎市政記者の蓑川裕之(42)、原口司(33)、山口紗佳(30)、六倉大輔(30)と担当デスクの山田貴己(50)で振り返った。

山田 企画の意図は被爆地の平和報道の検証。長崎新聞の原爆報道が「被害僅少」という現実とかけ離れた記事から始まった事実を反省し、教訓とする何らかの取り組みが被爆70年に求められていると思った。

蓑川 連載を始めたころ、集団的自衛権の行使容認をめぐる国会論戦がヤマ場を迎え、閣議決定された。時代的にも戦後を見詰める必要があった。

六倉 まず被爆時の記者を捜し回ったが、他界していたり病気で話が聞けなかったりして「10年早ければ」という話によくなった。

原口 しかし原爆報道が本格化した被爆30年ごろの記者には会えた。10年後は難しかったろう。

六倉 印象に残ったのは終戦後、占領下の報道統制もあり被爆者の窮状を報じず、一方で永井隆博士を過剰に取り上げていたこと。象徴的な被爆者に何かを代弁させる報道の落とし穴みたいなものは、今もあまり変わっていない。

原口 実際は「語らない被爆者」が大半。掘り起こすことも記者の仕事なのだとあらためて感じた。

山口 「あちこちに遺体が-」などと記者は言葉を並べ、何となく原爆を描いた気になったりする。でも証言者自身のことを知るほど、その人が見た光景を本当に表現できているのかと悩んだことも。一方、被爆者も就職や結婚など人生の節目の悩みにぶつかりながら70年生きてきたんだと再認識する機会になった。

蓑川 被爆者が減る中、今後は、より継続的な視点で報道をすべきだ。どういった観点が必要か。

六倉 特集で故人の被爆者らの言葉を紹介したが今も色あせない。手記など文章に目を凝らすことで聞こえる声がある。被爆者なき後の報道の一つの在り方としては、膨大な被爆体験記など資料を活用することが重要だ。直接取材して書くのと違って記者は一層の主体性が問われる。

原口 だが、被爆者はまだ健在だし、受け継ごうとする被爆2世も出てきた。そこは心強い。

山田 人類を破滅させる威力がある核兵器は残念ながら今も世界のパワーバランスの要。広島、長崎は、その源流であり「原爆を伝えろ」といううめき声みたいなものが地底(ちぞこ)から聞こえる地だ。原爆報道は地元紙にとって宿命だし、被爆100年に向け、広く問題提起を続ける役割を負う。今後は、被爆者がいなくなっていく時代の報道の在り方が問われる。

◎ズーム/連載企画「原爆をどう伝えたか長崎新聞の平和報道」 長崎新聞は戦時の報道統制下、原爆投下の第一報を「被害は僅少の見込み」との見出しで誤った被害状況を報じた。企画は70年にわたる「原爆報道」を自戒も込めて検証しようと被爆70年の前年、2014年8月にスタート。時代を追う形で(1)「第一報」(2)プレスコード(3)混沌(こんとん)(4)熱(5)礎(6)時流-の6部構成で連載と特集を展開。特別編として特集「戦前戦中の紙面」も掲載した。