被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 5

国際司法裁判所で核兵器の違法性を訴える伊藤市長(右)=1995年11月7日、オランダ・ハーグ(池本仁史撮影)

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被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 5 海外取材

地元紙として模索続く

2016/03/28 掲載

被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 5

国際司法裁判所で核兵器の違法性を訴える伊藤市長(右)=1995年11月7日、オランダ・ハーグ(池本仁史撮影)

海外取材

地元紙として模索続く

 核兵器をめぐる審理がオランダの国際司法裁判所で始まった1995(平成7)年11月初旬。日本政府の証人として出廷する長崎市長(当時)、伊藤一長の陳述原稿が外務省の”圧力”で二転三転する状況が連日、長崎新聞の1面で報道された。

 同年4月の市長選で現職の本島等を、「(国政に関わる問題に)若干踏み込みすぎた」などと批判し初当選した伊藤。当初「違法性はあえて言わない」と外務省に迎合する姿勢をみせ、被爆者らの反発を受けた。

 「被爆地の市長として経験不足がはっきり出た」。当時の長崎新聞市政キャップ、池本仁史(56)=現総務局長=は、陳述原稿の変遷を記事化。伊藤の対応を「主体性がない」と指摘した。曲折を経たが、伊藤は法廷で黒焦げの少年の写真を掲げ、「核兵器は違法」と涙ながらに強調。裁判長から「感動的な陳述」と異例のコメントを引き出した。

 長崎国際文化会館職員として原稿作成に携わった田崎昇(71)は、陳述内容が違法の強調に傾いたことについて「PR上手の伊藤が報道を気にしていたのは間違いない」と語る。

 しかし裁判所は96年7月の勧告的意見で「極端な状況下での核兵器使用の違法性は判断できない」とした。

 あれから20年。米国の「核の傘」に頼る日本政府と、脱却を訴える被爆地の考え方には依然、大きな隔たりがある。また核保有国と、核兵器禁止条約制定を望む非保有国の溝も深い。

 長崎新聞は95年以降も、核拡散防止条約(NPT)再検討会議など国際会議に記者を派遣。ただ、派遣期間や語学力などの問題で長崎市長や被爆者らの現地での動きを伝えるのが大半。会議自体で何が話し合われ、対立し、核兵器をどう取り扱うのかという”本筋”の報道は、共同通信の配信記事に頼るしかなかった。

 そんな中、2012年発足の長崎大核兵器廃絶研究センターは13年から、NPT再検討会議などに派遣している教授陣の専門的リポートを、長崎新聞に寄稿する形で会議と同時進行で掲載。世界の動きを一地方紙はどう報じるべきか、手法も含め模索が続いている。

 センター長の鈴木達治郎(64)は被爆地の地元紙の強み、弱みをこう語る。「核兵器を許さないというメッセージは強く伝わる。だが、冷静な分析となると筆が弱まる。簡単でないが両方をバランスよく伝える必要はある」(文中敬称略)