被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 3

被爆50年の1995年、長崎新聞は連載記事で海外と日本の原爆観の「断絶」を伝えた

ピースサイト関連企画

被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 3 戦争責任と加害(3)

世界の“正当化論”に直面

2016/03/26 掲載

被爆71年 原爆をどう伝えたか 第6部 3

被爆50年の1995年、長崎新聞は連載記事で海外と日本の原爆観の「断絶」を伝えた

戦争責任と加害(3)

世界の“正当化論”に直面

 天皇の戦争責任に言及し、右翼の銃弾を浴びた長崎市長(当時)、本島等は一命をとりとめた。事件から1週間後に病室で応じた取材では「昭和天皇にも当時の軍閥にも、指導的立場の末端にいた私にも、大小にかかわらず戦争責任があった」と重ねて語り、主張は揺るがなかった。

 戦争責任をめぐる認識は、次第に被爆地の首長としての考え方にも反映。天皇発言をした翌年1989(平成元)年の平和宣言は「戦争を心から反省」の文言が初めて入り、以降、アジア太平洋諸国への謝罪のくだりが定着した。市長として国際社会と接する中で、米国、アジアの人々の多くが「原爆投下が戦争の終結を早め、多くの人命が救われた」「原爆は正しかった」と考えていることを知り、「被害だけを言っても世界との相互理解は進まない」という考えに至った。

 そして被爆50年の95年、原爆投下をめぐり、市民もまた、世界との「断絶」に直面する。1月、米国立スミソニアン航空宇宙博物館が企画した原爆展が、米議会や退役軍人らの反発で中止に追い込まれた。7月に長崎の市民グループらが開いた韓国での原爆展も地元で抗議運動が起き、会場変更などを余儀なくされた。被爆者が原爆被害を世界に発信してきたにもかかわらず、米国やアジア諸国では依然として原爆正当化論が主流だった。

 長崎新聞は同年、米国、シンガポール、韓国に記者を派遣し、被爆国日本、原爆投下国、戦争被害国に横たわる原爆観の乖離(かいり)の実態と相互理解の糸口を探った。シンガポールと韓国を取材した石田謙二(58)=現佐世保支社長=は、「自分たちの被害ばかり考えて、過去の罪を考えない」-などと、被爆者に対するアジアの厳しい視線も率直に書いた。「アジアで核兵器廃絶の共感を得るには、日本側の加害認識が不可欠」と考えたからだ。

 だが、人類史上まれに見る無差別殺りくを体験した被爆者まで、加害責任を負い続けなければならないのか。被爆者の考えはさまざまだ。丸田和男(82)=長崎市城山1丁目=は、日本の侵略戦争を認めつつも「核大国である中国に加害責任を言われるのは違和感がある」と語る。山川剛(79)=同市滑石3丁目=は「被爆者が被害ばかり強調するのは確かにフェアじゃない。だが核兵器廃絶は人類共通の課題。どんなに責められても、被爆者は核の脅威を発し続ける義務がある」と考える。(敬称略)