戦争責任と加害(2)
「言論の自由」に問題限定
天皇に戦争責任はあるとする長崎市長(当時)、本島等の「異例の発言」に端を発する論争は、1989年1月7日に昭和天皇が逝去し、「平成」の幕が開けると沈静化していった。「昭和が終わったことで、日本人の戦争責任まで忘れてしまえるわけではない」。長崎新聞記者だった高橋信雄(65)は、もどかしさを感じていた。
そんな折、ナチス・ドイツがポーランドに建設したアウシュビッツ収容所の悲劇を伝える「心に刻むアウシュビッツ長崎展」を長崎の市民有志が企画した。自国の戦争犯罪に厳しいまなざしをそそぎ続ける西ドイツ国民の姿を通し、日本人の戦争責任を問う目的もあった。実行委だった舟越耿一(70)は、当時の紙面で「日本人は戦時中、加害者のナチス・ドイツの側に立っていた。加害者としての自覚と反省抜きにアウシュビッツの死は語れない」と説明している。
同年6月に7日間開いた同展は、主催者の予想を上回る約2万7千人が詰め掛けた。「たとえ口に出して議論しなくても、市民は心の中で戦争を見つめ続けていた」。会場前に並ぶ人々の長い列を前に、高橋は戦争加害に真摯(しんし)に向き合おうとする良心を感じ取った。
本島は「アウシュビッツを人ごとと考えてはならない。日本の軍隊も中国、東南アジアで似たことをやってきた」と同展に感想を寄せた。全ての日本人に戦争責任がある。「異例の発言」もこうした考えに根差していた。だが数カ月後の90年1月18日、本島は撃たれた。逮捕された右翼団体幹部は「市長の発言が許せず、鉄ついを加えようと思った」と動機を語った。
「市長への銃弾は市民全体に向けられた銃弾」。卑劣なテロ事件に市民の怒りは爆発した。一方、本島の口を借りてタブーを語り、テロの矢面に押し立てたとして、メディアも批判を浴びた。「言論の自由を求める長崎市民の会」の岩松繁俊(88)は当時、本島の発言をめぐる報道が言論の自由の問題に限定され「戦争責任を日本人全体の問題として深く掘り下げるに至らなかった」と追及した。
銃撃事件から3カ月後、高橋は、事件を自らの戦争観や天皇観と結び付けて問い直す市民の姿を連載。だが「戦争の時代である昭和の終わりに、さらに踏み込んで戦争体験や、加害の実態を海外で聞く大取材を展開すべきだった」との思いが今も残る。(敬称略)