自由思想の編集局長
敗戦予感も書けぬ苦しみ
「戦争責任」公職追放5年
戦後70年にわたる長崎新聞の原爆、平和報道をたどる企画「原爆をどう伝えたか」。その原点と言える長崎原爆投下の第一報は「長崎市に新型爆弾 被害は僅少の見込み」(1945年8月10日付)という事実とかけ離れた内容だった。戦時下の新聞報道は厳しい言論統制で制限されたが、同時に国民の戦意高揚の役割を果たしたとされる。長崎新聞は「戦争」をどう伝えたのか。当時の編集局長の家族証言や紙面から考える。
戦時中に政府が打ち出した「一県一紙策」により、長崎日日新聞(長崎新聞の前身、長日)など県内4紙は1942(昭和17)年4月1日から「長崎日報」に統合した。第1号には「一切のものは、擧げて戰爭完遂に集中されねばならない」とする社説が載った。国家総動員法の下、新聞社もまた国策に順応し、戦意高揚の役割を担った。
終戦後、長崎新聞の「戦争責任」を引き受けた人物がいる。長日や長崎日報で編集局長などを務めた田中豊秋(75年に75歳で死去)は、戦後その責務を問われる形で、5年間の”公職追放”になった。戦前、戦中の紙面作りの中心だったとみられる田中は、どんな人物だったのか。生家がある佐賀県藤津郡太良町に親族を訪ねた。
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田中は太良町(旧多良村)の地主の次男として生まれた。一度は東京の新聞社に入るが、跡継ぎだった長兄の急死を受け、27年に佐賀の実家と行き来しやすい長崎市内に家族と共に転居し、長日に就職した。
めいの中江秀(96)=同町=にとって、田中は進歩的な自由思想を持つ知識人だった。学生時代は地主である父親に向かって「小作人から搾取している」と言い放ち、怒鳴り散らされていた。本棚には思想家のマルクスの書物が並び、学生だった中江に自由恋愛を描いた映画や小説を勧めた。
「新聞一筋。帰りはいつも遅かった」。長女の森裕子(81)=諫早市泉町=は、長日の社屋で意気揚々と仕事をする父の姿を覚えている。机に向かい、一心不乱に筆を走らせる父を誇らしく見ていた。
公権力による検閲が田中の悩みの種だった。思想や政治活動を取り締まる特別高等警察(特高)が紙面をチェックし、表現を書き換えさせたり、鉛版を削らせたりした。皇室関係の記事は特に厳しく、田中もたびたび修正のために呼び出されていたという。
陸軍青年将校らのクーデター未遂「二・二六事件」を伝える36年2月27日の長日朝刊は、鉛版が無残に削られ、ほとんどが空白の紙面になった。中江も同事件前後から「自由にものが言えない重苦しい空気」が社会を覆い始めたと記憶している。諏訪神社から港を眺めていただけで、特高に尋問されたこともあった。
だが37年に日中戦争、41年に太平洋戦争が始まると社会は高揚感に包まれた。県内の祝賀ムードを伝えた当時の長日紙面を見返し、中江はつぶやいた。「こういう新聞や写真は人を勇ましい気分にさせるのよ」
仕事から帰った田中は、自分の母親に戦況を語り聞かせていた。大きな世界地図で日本の領土を赤く塗り、快進撃を説明した。「実際は戦況が悪化していたのも知っていた」と中江は言う。田中の母は戦中の43年に死去。森も「『母は敗戦を知らずに死んでよかった』と(田中は)しきりに言っていた」と同調する。
戦争について田中がどんな意見を持っていたのか、親しかった中江にも分からない。「敗戦を予感しながら、勝ったとしか書けない苦しみや葛藤はあっただろう。それでも何も言えない時代だった」
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終戦後間もない45年12月12日、長崎新聞(同年7月に長崎日報から改題)は「宣言」を掲載した。
「戦時中眞實(しんじつ)の報道、厳正なる批判を加へ得ざりし責任を痛感し(中略)讀者諸彦(しょげん)に深謝する」「縣民の公器たらしめ(中略)公正且つ自由なる民主主義、新日本の建設に應分の力を致さんことを誓ふ」
戦中の報道姿勢を反省し、再出発を誓う内容。しかし、田中の四女で元長崎新聞記者の山下昭子(73)=長崎市油木町=は、胸のつかえを感じた。輝かしい「再出発」の陰で、責任を背負わされた父の無念を想像するからだ。
終戦後、新聞社を辞した田中は太良町の実家で慣れない農作業に従事した。中江の脳裏には、自宅の縁側で無気力に外を眺める田中の寂しげな背中が焼きついている。だが周囲に不満や恨み言を口にしたことはなかった。
長崎新聞は46年12月に4社分離。田中は51年に長崎日日新聞に呼ばれて再就職し、主に文化関係の記事を担った。「どんな気持ちでいたのだろう」と森は思う。戦後の父は急速に老け込み、かつての活気に満ちた仕事ぶりとは違って見えた。
田中は戦前から川柳を好んで詠んだ。「追放」後のこんな句がある。
「死処(ししょ)ここに 定まる門の 田を植うる」
山下は「失意のうちに佐賀に帰り、ここが死に場所と思いながら農業をした。誰にも言えない胸の内を句で表現するしかなかったのでは」と推し量る。
6人のきょうだいの中で山下だけが、父と同じ職に就いた。当初は記者になることに猛反対された。戦時中の長崎新聞の「罪」を誰よりも痛感していたからかもしれない。父の真意に今になって思い至る。
山下は、被爆医師の秋月辰一郎や原爆俳人の松尾あつゆきを扱った連載など原爆、平和の記事も多く手掛けた。夏が近づくと、奇妙な胸の痛みに突き動かされ、取材に駆け回った。戦争について多くを語らなかった父の「遺言」として書かされた。そんな気がしている。(文中敬称略)
◎「さあ來い萬難千苦」「沖縄勇士の血闘に續け」/「報国」徹した本紙、県民を鼓舞
■臨戦態勢
1931(昭和6)年9月、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破し、満州事変が勃発した。政府の不拡大方針に逆らい満州を占領した関東軍を、長崎日日新聞(長日)は「新春の空に輝く錦州城頭の日章旗」(32年1月2日朝刊)などの記事で支持した。同月、上海で日中の軍事衝突が起きると長日は現地に記者を派遣した。
37年7月の盧溝橋事件を皮切りに、日中戦争の火ぶたが切られる。同年12月13日に日本軍は南京を占領。翌14日夕刊は「爆發した縣民の歡喜」の見出しで、戦勝に沸く県内の様子を報じた。
日本全体が戦争の熱気に包まれる中、38年3月に「国家総動員法」が可決。物資統制により国民は倹約を余儀なくされる。40年8月3日朝刊には「非戰時的扮装(ふんそう)を排撃 縣民生活費の全面切り下げへ!」の記事。ぜいたく品や娯楽の自粛を呼び掛ける論調が色濃くなっていく。
同年7月、長日は「國民の士氣を鼓舞する」として戦時国民生活標語を募集。「その日その日が奉公日」「生活下げて日の丸揚げて」-など、入選作を夕刊1面で連日紹介した。
日中戦争の長期化を受け、政府は総力戦に向けた国民の「臨戦態勢」づくりを進める。既成政党や労働組合は解散し、大政翼賛会が発足した。
■言論統制
41年12月7日(日本時間同8日)、日本軍が米ハワイ・真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。「さあ來い萬難千苦 熱血沸る百卅萬縣民」。同9日の夕刊は勇ましい見出しとともに、県民の熱狂を伝えた。
当時の主筆だった大森万亀太が開戦を批判したという逸話が戦後の長日に載っている。だが紙面には、長日が開戦に異を唱えた形跡はほとんどない。
開戦直後、言論統制の動きが加速する。同13日に国家総動員法に基づく「新聞事業令」が施行、同17日には政府が裁判なしで新聞を発行停止できる法律がわずか1日で成立した。
こうした状況の中、戦局報道は、軍の公式発表「大本営発表」が基本となる。シンガポール陥落を伝えた42年2月16日朝刊には、「祝星港陥落」の懸垂幕を掲げた長日社屋の前で万歳する人々の写真を掲載。広告欄も地元企業の祝辞が並ぶ。
大敗したミッドウェー海戦のニュースは、アリューシャン列島での戦績を強調し、損失は矮小(わいしょう)化された(同年6月11日朝刊)。軍部の情報統制と総力戦にまい進する世論の中で、新聞は「報国」に徹したように映る。
■敢闘精神
戦況が悪化してからも、県民の戦意を促す記事が目立つ。沖縄戦を終えた45年6月26日朝刊は「全縣民沖縄勇士の血闘に續け」との見出しで、「長崎縣民の旺盛なる敢闘精神は試練に立向へば立向ふ程なほ一段と燃え立つ」とある。
1200人以上が犠牲になった6月の佐世保大空襲後も、「市民よ頑張れ 急ぎ職場へ復歸せよ」(同年7月1日朝刊)と檄(げき)を飛ばしている。
8月5日朝刊の新聞配達学徒隊結成式の記事で、児童はこんな誓いを述べている。「決戰の心の糧である新聞を僕達の手で必ずご家庭へ正しく配ります」
苦しい生活の中、多くの県民が新聞に鼓舞され、勝利を疑うことなく8月9日を迎えた。