戦前の様相漂う今 憂う
1944(昭和19)年12月、ビルマ(現ミャンマー)戦線で、連合軍の圧倒的兵力と補給戦略を前に劣勢に立たされた陸軍第十八師団。尾上宮雄の隊は、バーモで濃霧を突破後、転戦を繰り返し、45年5月から南部シッタンで勝機なき攻防を続けていた。
8月14日、尾上は上官から指示を受けた。「敵軍に一切攻撃するな」。砲撃制限だった。「日本は負けたのか」。悔しさの一方で、望郷の念が湧いてきた。
翌日、終戦の詔勅が下った。「やっと終わった」。殺さなければ殺される3年半にわたる恐怖から、やっと解放された瞬間だった。第十八師団の戦没者は2万人余りに上った。
南部トングーでの収容所生活は三食を与えられ、晩には演芸会で盛り上がることも。真面目に働けば日本に帰れるかもと希望を持ち、懸命に労務に従事した。46年8月、ラングーンから祖国を目指す米軍の輸送船に乗り込んだ。
同月、浦賀に帰港。祖国の地を踏み締めた。「本当に助かったんだ」。実感がじわじわと湧いた。早速、はがきを北高戸石村(当時)の実家へ送った。「2、3日後に帰る」
終戦から丸1年の15日、実家に着いた。大粒の涙を流す母と、ただただ抱き合った。浦賀から送ったはがきはその翌日に届いた。
1週間ほどして長崎市を訪れ、ビルマで耳にした“新型爆弾”の威力を知った。まちは生気を失い「野宿する人、防空壕(ごう)で生活する人ばかりだった」。
父から受け継いだ左官の技術で、育てた弟子とともに新たな家々を築くことに心血を注いだ。「平和都市となる長崎の礎は、家だ」。荒廃した長崎の復興に尽くしたとして2004年、瑞宝単光章を受けた。
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福岡県久留米市に戦没者慰霊の陸軍第十八師団菊兵団記念碑「菊花之塔」がある。毎年の慰霊祭に尾上は4、5年前から高齢のため出席できなくなった。戦友は次々と死去。遺族らを除き、出席する元兵士は近年、2、3人という。
戦争とはどういうものかということを知る体験者がいなくなる社会が、着実に迫っている。そんな時代に、強行採決を経て集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法が昨年成立した。「国民の議論によって成熟していく民主主義が今、揺らいではいないだろうか」。尾上は憂えている。
「自分が生きている今が、戦前であってはならない」
(文中敬称略)
=おわり=