死の谷で傷病兵 自決も
1942(昭和17)年6月ごろ、尾上宮雄がビルマ(現ミャンマー)で合流した陸軍第十八師団は、その後、占領地防衛のため北部で警備に当たっていた。
43年1月、ビルマ奪還を狙う連合軍は、インドと中国をビルマ経由で結ぶ輸送路「レド公路」の建設へ動きだした。一方、日本軍は英領のインド北東部インパールの急襲を計画。3師団など計約10万人が標高2千メートル超の山脈を越えて300キロ以上を戦いながら歩き、目的地に至る作戦。その一環で、第十八師団は10月から、レド公路を遮断する戦いを一手に担い、北部フーコンで連合軍との持久戦に入った。死の谷とも呼ばれる密林地帯。立ち込める熱気と湿気は感染症の遠因となり、日本兵を苦しめた。
尾上らが担当する94式山砲は、有効射程6300メートル。1分間に3発砲撃できるが、弾薬不足で発射は1日3発に限られた。対する連合軍は圧倒的兵力。空路で確実な補給を続けていた。第十八師団は退路、補給路を断たれ、食糧、弾薬とも底を突きかけた。
飢えはパイナップルの芯やカエルなどでしのいだ。ジャングルには野生のトラや毒蛇が潜んでおり、精神的にも極限まで追い込まれた。足手まといになる傷病兵は密林に残していくしかなかった。「置いていってくれ」。動けなくなった仲間の言葉を受け、その場を去ると100メートルも進まないうちに自決用の手りゅう弾のさく裂音が響いた。そんなことが幾度もあった。
44年3月に決行されたインパール作戦で、日本軍は戦死3万人、戦傷病者4万余を出し総崩れ。第十八師団はフーコン戦線を約200日間死守し、レド公路遮断の拠点バーモ付近で守戦に回った。連合軍は砲撃で陣地破壊を繰り返し、薄暮からは照明弾、信号弾を駆使した歩兵の侵攻が続いた。
同年12月、山砲を据えた尾上の分隊の陣地が、上空の偵察機に見つかった。陣地は3畳半ほど。「(砲弾が)70~80メートル地点で落ちました」。さらに「20~30メートル」。着弾が確実に近づく。3発目が付近で爆発。砲弾の破片が分隊長の胴を切り裂いた。「水を飲ませてくれ」。最期を悟ったひと言。あらわになったはらわたがピクピクと動いていた。水筒の水はわずかで、分隊長の唇を湿らせることしかできなかった。
陣地にいた11人のうち9人が負傷し、絶命。「明日はわが身」。尾上に上官や戦友の死を悼む余裕などなかった。