戦後70年ながさき<p>始まりと終わりの地 サセボ物語 5

川棚臨時魚雷艇訓練所があった湾内には、震洋をつり上げていたクレーンの台座が今も残る=川棚町

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戦後70年ながさき

始まりと終わりの地 サセボ物語 5 特攻艇 震洋

「死」の現実味 感じず

2015/12/12 掲載

戦後70年ながさき<p>始まりと終わりの地 サセボ物語 5

川棚臨時魚雷艇訓練所があった湾内には、震洋をつり上げていたクレーンの台座が今も残る=川棚町

特攻艇 震洋

「死」の現実味 感じず

 「当時、何を信念としていたのか分からない。ただ目の前のことに必死だった」。元震洋部隊員の寺田政俊(90)=佐世保市須佐町=は、重い口を開く。

 戦争末期、海軍は戦況の挽回を期して9種の特攻兵器を考案した。4番目の兵器で「㊃艇」とも呼ばれたのがベニヤ板製ボート「震洋」。長さ約5~7メートルの1~2人乗り。船首に250キロ爆弾を装備し、敵艦に突撃する本土防衛の“最終兵器”だ。

 1944(昭和19)年、海軍水雷学校(横須賀)の分校として開設した海軍川棚臨時魚雷艇訓練所は、佐世保市街地から南へ約15キロの東彼川棚町小串郷にあった。海軍飛行予科練習生などから“転身”した20歳前後の若者が、震洋で成果を挙げて死ぬために、この一帯で水上特攻の訓練に日々励んだ。

 寺田もその一人。44年12月、和歌山県の三重海軍航空隊高野山分遣隊で突然、募集を受けた。「自分は飛行機乗りが志望だなんて言えなかった」と振り返る。

 震洋の操縦法を学び、大村湾で廃船に突撃する訓練を繰り返した。しかし小さな衝撃でもすぐ壊れるほどもろく、故障ばかり。「訓練はきついが、仲間との生活が楽しくて死に対する恐怖心はなかった。いや、現実味が感じられなかったのかもしれない」

 寺田が所属する部隊は後輩への指導も引き受け、計7カ月間、訓練所に滞在。45年7月、長崎市の牧島基地へ移った。武器や燃料不足で訓練もままならず、防空壕(ごう)掘りなどをしながら出撃命令を待った。

 8月9日、特攻艇の手入れをしていると突然、閃光(せんこう)を感じた。夕方、新聞紙などの燃えかすが大量に降ってきた。

 16日、仲間が持ってきた新聞で知った。「なんや、戦争済んどったぞ」。全身の力が抜けた。

 震洋隊は、フィリピンや沖縄など劣勢の前線で数隻ずつ“成果”を挙げたが、出撃前に攻撃を受けて海に沈んだケースも多かった。同町新谷郷の「特攻殉国の碑」には、震洋の戦死者2524人を含む計3511人の名が刻まれている。

 「あんな粗末なボートで死ぬなんて。人間の考えることではない」。だが、信念を胸に海に散っていった先輩たちの死を、“無駄”とは思いたくない。
複雑な面持ちで寺田は堅く唇を結んだ。=敬称略=