宇久島空襲
油断していた島民
築74年の民家の壁に残る大きな弾痕。「梁(はり)から壁、障子、窓ガラス、雨戸と一直線に貫通していた。空襲の残骸です」-。この家に暮らす戸田徳重(とくじゅう)(87)=佐世保市宇久町=は話す。1945(昭和20)年7月、宇久島を米軍機が襲撃。10代の少年2人が犠牲になった。
太平洋戦争末期、全国各地で米軍の空襲が激化した。宇久島からも日米の空中戦が見えたという。
「こんな小さな島を襲うことはないだろう」。島民は”油断”していた。佐世保大空襲で被災した井原恒夫(86)=宇久町=も、宇久島に逃げ帰った時のことを「もう大丈夫、助かったと胸をなで下ろした」と振り返る。
7月7日午後4時15分ごろ、飛行艇2機を含む米軍機約20機が島を襲撃。井原は、自宅近くの丘で敵機を見ようとした。襲われるとは思っていなかった。だが米軍機は低空飛行で迫り、機銃掃射。慌てて近くのお宮へ逃げ込んだ。震えながら町を見下ろすと、複数の機体が民家の上を旋回。身を乗り出して機銃攻撃する米兵の姿も見えて、「心臓がバクバクした」。
宇久島空襲について長年調査する戸田によると、「報復」あるいは「救助」が目的とみられる。7日午前、宇久平港から約5キロの海上を低空飛行する米軍の哨戒飛行艇2機と、佐世保海軍鎮守府所属の駆潜特務艇が銃撃戦を交え、その後、米軍捕虜5人が島に連行されていた。平港には多くの島民が集まり「やりで殺せ」などと叫んで、一時騒然となったという。
空襲は約10分ほどだったが、民家や国民学校などが被害を受けた。漁船用燃料タンクなどに投下された爆弾は不発。しかし、港沖の海上で船の手入れをしていた16歳の竹村良市と、いとこで17歳の岩夫が銃撃された。岩夫は即死。良市は足を撃たれ病院に搬送されたが、医師が防空壕(ごう)に避難していて治療を受けられず、その晩、亡くなった。
「病院で、痛か、どうにかしてくれんねと兄が泣くのに、物(医療品)の場所が分からなくて。明かりもつけられず水もあげられなかった。泣きながら亡くなっていった」。良市の弟、千秋(84)=宇久町=が当時を思い出し、声を震わせる。「兄は、ただ一生懸命、働いていただけだった。未来は一瞬で奪われてしまった」
=文中敬称略=