戦後70年ながさき<p>始まりと終わりの地 サセボ物語 3

佐世保海軍工廠などの様子が見えないように設置された壁。市民は窮屈な暮らしを送っていた=佐世保市小島町

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戦後70年ながさき

始まりと終わりの地 サセボ物語 3 暮らし

「勝つまでの辛抱と」

2015/12/10 掲載

戦後70年ながさき<p>始まりと終わりの地 サセボ物語 3

佐世保海軍工廠などの様子が見えないように設置された壁。市民は窮屈な暮らしを送っていた=佐世保市小島町

暮らし

「勝つまでの辛抱と」

 「天を衝(つ)く萬歳(ばんざい)!軍都の戦勝祈願祭」-。開戦から間もない1941(昭和16)年12月13日、長崎日日新聞は佐世保市の祈願祭を報じた。市長や軍関係者、学校長らが出席し、記事には「軍都市民の気概を示した」とある。

 市内で小学校教諭をしていた篠崎年子(97)=同市小島町=は開戦を知り、武者震いした。「日本が世界で強くなると思ったら勇気が湧くような感じがした」。子どもらと応援しなければと教室に日の丸とともに世界地図を掲示。進軍のたびに印を付けた。

 明治期の海軍鎮守府開庁から軍に依存、発展してきた佐世保は、戦争への協力体制が市民感情も含め既に整っていた。要塞(ようさい)地区に入らない、軍の機密事項は口外しない-などは常識。海軍工廠(こうしょう)が見えるあらゆる道に高さ2メートル超のコンクリート壁を設け、山に立つ家は海側に板を打ち付けた。バスや列車は佐世保の港が近づくとよろい戸を下ろし、車掌や憲兵が監視した。

 個人の屋外写真撮影は厳禁で、篠崎の学校も行事は全て、許可を受けた業者に撮影を依頼。屋外の写真は背景が消され「佐世保鎮守府検閲済」の印が押された。それでも戦局拡大で規制は一層厳しくなった。

 主婦だった山本タエ(95)=同市梅田町=は、武器製造のための金属回収で、母が結婚指輪を差し出すのを見た。仕方ないと思いつつ胸が痛んだ。配給は少なく、息子の粉ミルクもなかなか手に入らなかった。やむなく闇市で牛乳を購入。「食糧はあるところ(軍)にはある」。知人や親戚に軍幹部がいれば、こっそり分けてもらう人も。縁のない自分にはうらやましかったが、「戦争に勝つまでの辛抱」と我慢した。

 45年6月28日午後11時58分。佐世保は大空襲に見舞われた。米爆撃機が焼夷(しょうい)弾約千トンを投下。学徒動員で宇久島から本土に来ていた井原恒夫(86)=同市宇久町=は、峰坂町の叔母宅で被災した。叔母らは防空壕(ごう)へ避難したが、井原は弟と家に残り、火を消して回った。次々と投下される焼夷弾。それはまるで花火のようで、不謹慎ながらきれいとさえ感じた。

 約1万2千戸が全焼、約6万人が被災した。犠牲者は確認分だけで1230人。翌日、井原は宇久島から迎えに来た父らと焼け野原を歩き、相浦港へ。島を目指した。=敬称略=

【編注】篠崎年子さんの崎は大が立の下の横棒なし