出撃
「いつ死んでもいい」
1944(昭和19)年8月15日。戦艦「榛名(はるな)」は、当時19歳の水兵長、三浦八百人(やをと)(91)=佐世保市天神町=らを乗せ、佐世保を出港。三浦は詳しい行き先を知らなかったが、激戦地の南方海域へ向かうということは上官から聞いていた。
佐世保港口の高後崎に差しかかると、沿岸で地元の数人が国旗や軍艦旗を振っていた。
「いつ死んでもいい。これが最後の佐世保になるだろう」。恐怖や不安はなかったが、港を離れると寂しさが込み上げた。榛名は、フィリピン・レイテ沖海戦(同年10月)へ向け、かじを切っていた。
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三浦は南高吾妻町(現・雲仙市)出身。41年12月の開戦のころ、海軍への入隊を志願。重巡洋艦「那智(なち)」の高射器員などを経て、44年2月から榛名に副砲の砲手として乗り組んだ。
レイテ沖海戦で、榛名は戦艦大和、武蔵などとともに主力部隊の一角を担い、レイテ湾突入を目指し交戦。敵砲弾が近くの海面に着弾するだけで、艦は激しく縦に揺れた。だがなお、三浦は恐怖は感じなかった。「アメちゃんをやってやる」。その一心だった。
一部部隊が米軍の船団をおびき寄せた隙を突き、主力部隊は湾の目前まで迫った。だが突如、湾への突入を中止し北上、退却を始めた。後に「謎の反転」と呼ばれるこの動きを艦内で知った三浦は唇をかんだ。「どうして突っ込まないんだ。その覚悟で来たのに」
同海戦では、武蔵をはじめ戦艦3隻、空母4隻などが沈没。榛名を含む多くの艦船が損傷し、日本軍の「大敗」に終わった。その後、榛名は修理のため広島県呉へ寄港。港には傷ついた艦船がひしめいた。
45年3月、米軍機が呉港を空襲。榛名では24人の犠牲者が出た。三浦は持ち場に就いていたが、副砲では航空機を捉えきれず、敵機が去るのをじっと待つしかなかった。攻撃がやむと、仲間たちの遺体を兵員浴室で洗い、納棺した。
翌4月、榛名は予備艦となり、副砲や機銃の大半は撤去された。持ち場がなくなった三浦は、7月に艦を降りた。終戦の日は佐世保で迎えた。
これまで死に物狂いで訓練し、死線をかいくぐってきたのはいったい何のためだったのか-。むなしさが込み上げてきた。=文中敬称略=