開戦 暗号送信 埋もれる真偽
戦艦「榛名(はるな)」の艦内。当時19歳の三浦八百人(やをと)(91)=佐世保市天神町=は、「必勝」と記した鉢巻きを締め、副砲4番砲の前で構えていた。
「左砲戦、左××度」
「4番よーし」
副砲の尾栓を閉めると目の前のランプが赤く光った。
「撃ち方始め!」
伝令係の大声を合図に、敵艦へ向かって次から次へと発射した。命中したかどうかさえ分からない。ただ無我夢中で砲撃準備を繰り返した。1944(昭和19)年10月、「史上最大の海戦」とされるフィリピン・レイテ沖海戦の真っただ中に三浦はいた。
42年のミッドウェー海戦を境に攻勢を強めた米軍は44年7月、日本の「絶対国防圏」の内側にあるサイパン島を奪取。次の目標をフィリピン攻略と定めた。その阻止のため、日本軍が打って出たのが艦隊同士の決戦。日米両軍で約200隻が関わる総力戦となった。
「妻子持ちの仲間は体をブルブルと震わせていたが、私は農家の三男で独身。死ぬのは男の本懐だし、みじんも負けるとは思っていなかった」
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幾多の激戦を繰り広げた太平洋戦争。この口火を切ったとされる施設が、佐世保にある。
国指定重要文化財、旧佐世保無線電信所(針尾無線塔)。高さ136メートルの3本の塔が正三角形に配置された長波通信施設。旧日本海軍が1918年から4年かけて建設した。
無線塔は、真珠湾攻撃の暗号電文「ニイタカヤマノボレ」を中国大陸や南太平洋の部隊に送信した、と伝えられる。だが、市教委によると、それを裏付けたり否定したりする資料は、今なお見つかっていない。
かつて通信兵として無線塔で働き、ことし4月に86歳で他界した渡辺肇(はじむ)=佐賀県唐津市=の妻、時枝(77)は、肇が晩年語っていた言葉を覚えている。「送信所では自分が一番若かった。戦時中に無線塔で働いた中では最後の生き残りかもしれない」
無線塔で勤務した海兵の多くは既に亡くなった。暗号文を送信したのか否か-。その真偽は歳月の流れの中に埋もれようとしている。
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41年12月8日の太平洋戦争開戦から74年。1889(明治22)年の海軍鎮守府開庁から基地の街として発展した佐世保には針尾無線塔だけでなく、戦後に引き揚げ地となった佐世保港浦頭も存在する。戦争の”始まりと終わりの地”に刻まれた、いくつかの「物語」を追った。=敬称略=