世界 被害の実相 発信必要
1万5千人の視線が壇上の1人の老人に注がれた。「被爆者の実情を知らせにきました」。語り始めると、広場は水を打ったように静まり返った。1978(昭和53)年5月27日、米ニューヨーク。国連本部前広場に集まった米国人は、初めて触れる被爆者の証言に言葉を失い、涙した。
群衆の中にいた当時36歳の被爆者、横山照子(74)=長崎市夫婦川町=は、その光景に心を震わせた。被爆者の声が、世界に響き始めたのを感じた。
国連では初めての軍縮特別総会(SSDI)が開かれていた。核兵器廃絶を世界に訴える好機と、日本では総勢約500人の大訪問団を結成。横山は長崎原爆被災者協議会の代表として参加した。広島原爆の被爆者、桧垣益人=当時(82)=がスピーチした国連前広場の集会は、現地活動のハイライトだった。
訪問団には、分裂した原水協、原水禁、核禁会議の3団体も「呉越同舟」で集まった。「一つになれば声は遠くまで届く」。横山には、停滞した原水禁運動が被爆者を中心に再び盛り上がる手応えがあった。
長崎新聞の記者派遣はなかったが、当時整理部の執行優(79)は新聞労連を代表し訪問団に加わった。取材現場を離れていたが、原水禁運動の盛り上がりは認識していた。77年には核問題を考える国際シンポジウムが長崎であり、被爆の実相を世界に伝える動きが始まっていた。だが米国での原爆被害への無知と無理解は執行の予想を超えていた。「ヒバクシャを知っているか」と現地の雑貨店で聞くと、店員は首をかしげた。国連本部で開かれた原爆展の会場では「原爆の苦しみが今も続いていたなんて」と驚く米国人に会った。
執行は帰国後、米国で感じた反核の機運が長崎に伝わっていないのを感じた。SSDI期間中、長崎新聞紙面は「むつ」で持ち切り。「世界に原爆被害を発信する時代、被爆地のマスコミはこれでいいのか」。そんな問題意識が芽生えた。
その年の8月、被爆者らの願いが届き、原水禁と原水協が手を結んだ統一世界大会が長崎で15年ぶりに実現。達成感をかみしめる横山には心残りがあった。SSD Iが設けた国連本部内での非政府組織(NGO)演説で、日本訪問団代表としてスピーチしたのが被爆者ではなかったことだ。「核兵器廃絶で最も説得力があるのは被爆者。次こそは」。心に誓った。