転機 “金魚売り”から継続へ
長崎新聞の記者、池田文夫(67)=長崎市橋口町=が、長崎原爆被災者協議会(長崎被災協、同市岡町)を訪ねると、事務局長の葉山利行(2005年に75歳で死去)が苦笑いして言った。「また金魚売りね」。夏だけ盛り上がる時節的な原爆報道への皮肉だった。池田は意気込んで言い返した。「これからは金魚売りじゃないですよ」
被爆30年を翌年に控えた1974(昭和49)年、池田は市政記者クラブに配置され、報道部長に「被爆30年報道で新聞協会賞を狙う」とハッパを掛けられた。実際、75年を転機に長崎新聞の原爆報道は変わる。松平和夫(75)=諫早市馬渡町=、高橋信雄(64)=現長崎新聞特別論説委員=、池田の3記者を中心に、平和教育や被爆者援護などのテーマで年始から紙面で継続的に特集を展開。「イデオロギー闘争ではなく、被爆者の願いが主役」(松平)との方針を打ち出し、内容も「感傷的な報道から行政や司法の問題点を告発する報道へ」(高橋)移行していった。
75年1月、池田は日赤長崎原爆病院(当時は片淵町)で在韓被爆者、卞蓮玉(ビョンオンギョク)を取材した。広島市で被爆した卞は、戦後韓国に引き揚げたが喀血(かっけつ)などに悩まされ、長崎に治療に来ていた。池田は初めて在韓被爆者の存在を知った。長崎で朝鮮人が多数被爆したこと、祖国に戻り病気と貧困に苦しんでいること、補償は日韓条約によって「解決済み」とされていること-。忘れられた被爆者を誰が救うのか。突き動かされるように記事を書いた。
長崎被災協などは同年3月、韓国に調査団を派遣。「県民には韓国をよく思わない人もいますよ」。池田は、調査団の一人で長崎造船大(当時)教授、鎌田定夫(02年に72歳で死去)に言った。60年代、韓国が対馬沖で一方的に「領海」を設定し、日本の漁船を次々と拿捕(だほ)した事件は、日韓条約締結後も県民にしこりを残していた。鎌田はうなずき、こう言った。「それでもやる」
池田は上司に調査団への同行取材を申し出たが、許可が出なかった。
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30年目の原爆忌を控える8月8日の長崎を夕刊のニュースが揺るがした。「むつ、佐世保で修理」。放射能漏れを起こし、行き場をなくした日本初の原子力船「むつ」の修理港に、政府は被爆県・長崎を指名した。