分裂 「なぜ一緒にやれない」
「どうして一緒にやれないのか」-。1964(昭和39)年8月、長崎時事新聞(61年に九州時事新聞から改題、68年に長崎新聞と合併)の記者、嶺川洸(たけし)(79)は、苦々しい思いで原水爆禁止世界大会の長崎大会を見つめていた。長崎市ではイデオロギーの異なる三つの団体がそれぞれ原水禁大会を開催した。自分が取材したのがどの大会だったのか、今となってはどうしても思い出せない。「掲げる理想も、話し合う内容も、同じに聞こえたから」
会場入り口では身分証明書の提示を求められた。他団体の関係者を入れたくないようだった。第2回原水禁世界大会(56年)が同市で開かれた時の熱気を知っているだけに、殺伐とした空気がやり切れなかった。
超党派の市民運動として始まった原水禁運動だったが、59年の日米安全保障条約改定をめぐる意見対立をきっかけに亀裂が生まれた。61年に民社党系などが離脱し、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)を結成。さらにソ連核実験再開への対応で共産党系と社会党系が63年に決裂した。原水爆禁止日本協議会(原水協)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)などによる個別の運動が始まった。
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分裂は被爆者たちを混乱させた。広島では県被団協が分裂。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)は免れたが動員学徒犠牲者の会が脱退し、67年6月に県被爆者手帳友の会を発足した。
同年8月7~9日、同会は原水禁運動の統一を訴え、松山町の爆心地公園に座り込んだ。たすきには「被爆者のため、静かな命日にしてください」と記されていた。取材した長崎新聞の記者、執行優(79)=同市油木町=は、やるせなくなった。この日の参加者は全員60歳以上。原爆医療法からこぼれ落ちた被爆者のため新たな援護法実現への機運は高まっていたが、原水禁運動の分裂は明らかに水を差すものだった。「統一の後押しをしなくては」。そんな思いで記事を書いた。
当時の長崎新聞は連載や社説、読者投稿欄などいたるところに運動の統一待望論を掲載。だが溝が埋まることはなかった。
68年5月、原爆特別措置法が公布。国家補償はなく所得、年齢などさまざまな制限があり、同年度の長崎市の受給者は被爆者総数の約5%。またしても被爆者が求めていた援護とは、かけ離れていた。(文中敬称略)