被爆70年 年間企画
 原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 3

1960年代の福田須磨子さんの写真(浜口タカシさん撮影)。病苦と貧困にあえいでいた=長崎市平野町、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

ピースサイト関連企画

被爆70年 年間企画 原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 3 被爆記者(下) 「魂入れず」の医療法

2015/11/17 掲載

被爆70年 年間企画
 原爆をどう伝えたか 長崎新聞の平和報道 第5部「礎」 3

1960年代の福田須磨子さんの写真(浜口タカシさん撮影)。病苦と貧困にあえいでいた=長崎市平野町、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

被爆記者(下) 「魂入れず」の医療法

嶺川洸(79)が入社した九州時事新聞は、佐世保市に本社を置くローカル紙。県北メーンとはいえ、毎年8月9日前後は原爆関連の取材も増えた。

1956(昭和31)年の第2回原水爆禁止世界大会以降、被爆者団体の組織化が進み、こうした活動に携わる被爆者が原爆報道の”主役”となっていった。

長崎新聞が59年8月に連載した「原爆に打ち勝つ」では、長崎原爆青年乙女の会など被爆者団体を順次紹介。山口仙二、山口美代子、谷口稜曄(すみてる)、深堀勝一ら運動の中心人物が登場し、胸の内を語っている。嶺川は「夏になると被爆者を引っ張り出し、”ご意見番”のようにあれこれ語らせる。各紙にもさながら”お抱えのスター”がいるように見えた」と振り返る。

福田須磨子もマスコミがたびたび取り上げる「有名人」だった。だが60年、取材のため福田宅を訪れた嶺川が見たのは、病苦と貧困にあえぎ、ギリギリの生活を送る弱者の現実だった。

「仏作って魂入れず」。57年施行された原爆医療法について福田はこう語り、ため息をついた。「自宅から病院に行くだけでお金がかかる。よほど具合が悪くない限り行けない」。同法は60年に一部改定され、爆心地から2キロ以内の被爆者に医療費が認められるようになったが、相変わらず多くの被爆者が苦しみの中に放置されていた。原爆患者として日赤長崎原爆病院で入院治療を受けていた福田も、家族の生活が逼迫(ひっぱく)し、同年4月に自主的に退院していた。「病気をするから働けず生活が苦しくなる。そこで無理して働く、倒れる。あり地獄のような救いのない生活にあえぐ被爆者に何の生活保障もない」。60年8月9日付の長崎新聞は、福田の切実な訴えを伝えた。

「今の法律では、被爆者を救えていない」。福田の取材を終え、嶺川も被爆者の置かれた理不尽な状況に腹が立った。だが嶺川自身に「被爆者」としての自覚はなかった。被爆者といえば、壮絶な体験と目に見える傷痕を抱えた人々。町でケロイド患者に出会うのが日常であり、「自分は幸運だった」。

嶺川は85(昭和60)年、再び原因不明の鼻血に悩まされる。今度はなかなか治まらず、症状が悪化。最終的には「全身性エリテマトーデス」と診断された。福田と同じ病気だった。