被爆記者(上) 逃れたい 悪夢の記憶
終戦から15年が経過し、長崎の街から原爆や戦争の爪痕は消えつつあった。
1960(昭和35)年、九州時事新聞(61年に長崎時事新聞に改題、68年に長崎新聞と合併)の記者、嶺川洸(79)=長崎市金屋町=は、西町に向かって原付バイクを走らせていた。数年前まで畑ばかりだった西町周辺にも新しい家が次々と建ち、様変わりしていた。バイクを降り、奥まった細い路地を歩くと、ひときわ粗末なバラック小屋に着いた。被爆者で詩人の福田須磨子(74年に52歳で死去)が住む家だ。
日当たりの良い6畳の和室に福田は座っていた。髪は抜け、小さな赤い斑点が皮膚全体を覆っている。まだ30代のはずなのに老人のよう。その姿は、心の奥底に閉じ込めていた15年前の原爆を思い起こさせた。
■
当時8歳。嶺川は強制疎開のため片淵町3丁目(当時)の農家に家族と身を寄せていた。空襲警報で学校の授業が中止になり、近所の友達と遊んでいると、キラキラと輝く飛行機が浦上方面に飛んでいくのが見えた。機影が見えなくなった瞬間、閃光(せんこう)に包まれた。爆心地から2・8キロ。大きなけがはなく、家族も無事だった。
だが4年後、1歳下の弟に異変が起きた。おたふくかぜのように甲状腺が腫れて発熱。弟の口の中は出血でザクロのように真っ赤になり、食べ物も水も口にできなくなった。ジフテリアと診断され入院。嶺川が自宅で待機していると、入院先から連絡があった。「死んだばい」。発病からわずか10日。信じられなかった。
22歳で夜間高校を卒業し、九州時事新聞に就職。長崎支社の記者になった。ある日、市役所の記者室で記事を書いていると、原稿用紙にぼたりと血が落ちた。鼻血だった。「ついに自分にも原爆症が」。不吉な考えがよぎったが数日で治まり、すぐに忘れた。
弟の死も自分の体の異変も、原爆のせいとは考えなかった。考えたくなかったのかもしれない。
福田は生活記録「われなお生きてあり」で、こうつづっている。「『原爆症だ』と烙印(らくいん)を押されるのは恐かった。ただ普通の病気と思っていたかった」。その気持ちが今の嶺川には分かる。町は復興し、生活も安定してきていた。悪夢のような原爆のことなど忘れてしまいたかった。
■
55年に広島、56年に長崎で相次いで開かれた原水爆禁止世界大会をきっかけに、援護と核兵器廃絶の実現に向けて動きだした被爆者運動。呼応する形で、被爆地の県紙、長崎新聞の報道も広がりをみせる。年間企画第5部では、1950~80年代の平和報道の変遷を、記者の記憶を軸にたどる。